木村天山旅日記 

  沖縄本島南部慰霊

  平成21年9月 

 

第1話

午前中、敵兵の遺体を二体、目にした。一体はまだ枝にひっかかっていた。飛び出した腸が枝から枝へと渡り、まるでクリスマスツリーの花飾りのようだった。もう一体は、片脚を吹き飛ばされて木の下に横たわっていた。ちぎれた脚は木の向こう側に転がっていたが、ズボンとゲートルにきれいに包まれたままだった。目をそむけたくなる光景ではあったが、二人とも底に鋲を打った、くるぶしまでの革靴を履いているのに目を惹かれた。日本兵がそんなものを履いているのを見たのは初めてだった。ペリリューでは日本兵はみな、ズック地で底がゴムの、指の部分が二つに割れた足袋を履いていたのだ。

ユージン・B・スレッジ ペリリュー・沖縄戦記

 

 

沖縄南部激戦地の追悼慰霊に、出掛けた。

丸一日を、慰霊に費やすつもりだった。

 

レンタカーを借りて、朝、11時から、糸満市に向かって走った。

 

向かう先は、平和祈念公園である。

糸満市に入ると、そこは、すべて激戦地である。

どこで、慰霊を執り行ってもいいのである。

 

私は、海と、太陽に向かい、慰霊の儀を、執り行うために、平和祈念公園に向かった。

 

同行者は、コータと、辻友子である。

 

決められた道路を走らない。

サトウキビ畑などの、細い道を走る。

そこは、皆、戦地である。

 

平和祈念公園にて、祝詞を献上し、まず、清め祓いをして、行くべき慰霊碑に向かう予定である。

 

そこは、至る所に、慰霊碑が建つ。

 

沖縄の気温は、30度である。

内地の秋の風を楽しんでいた、私は、真夏に戻った。

汗が噴出す。

 

寄り道のように、走ったので、一時間は、かかった。

平和祈念公園の中には、多くの建物、慰霊碑が建つ。

 

しかし、私は、平和の礎 へいわのいしじ、のみに、向かった。

そこには、沖縄戦で、亡くなられた、240,856名の名前が、刻まれた礎が並ぶ。

 

それは、県外の人も、アメリカ兵も、イギリス兵も、台湾、北朝鮮、韓国の人々も、含まれてある。

 

平日のせいか、人は少ない。

私は、海の見える、先端に行き、太陽を拝して、神呼びを行った。

 

皇祖皇宗天照大神である。

音霊の、ウ音にて、お呼び出しする。

 

何度も、歌うように、お呼びして、太陽を拝する。

そして、祝詞を上げる。

中臣の祝詞である。

 

大祓いの祝詞といわれる。

私が、創作する場合もある。

 

宣る言、であるから、宣言するのである。

すなわち、言挙げである。

 

そして、慰霊する霊位に、対処する。

その想念の清め祓いを行う。

 

その時々で、方法も、順序も、何もかも違う。

その場にて、そのようにすべきことを、感受する。

 

このときは、言葉無し。

 

言うべきことは無い。

 

ただ、お送りの音霊、オーと、歌うように、唱えるのみ。

もし、万が一、ここに、浮遊している霊位がいるならば、戻るべきところに、お戻りくださいという、気持ちである。

 

ここに、刻まれた人々は、多くの人の慰霊の祈り篤く、慰められ、霊位としての、自覚があると、信じる。

 

公園には、遺骨を納めた場所もあるが、そちらには、出向かなかった。

 

すぐに、車を走らせて、白梅の塔に向かう。

それは、ひめゆり隊と同じく、女学生の看護隊であった。

 

その付近は、また、多くの戦士者が出た場所である。

どこということなく、その辺り一帯が、戦場であり、多くの方が亡くなっている。

 

私は、平和祈念公園の慰霊の儀で、十分であると、感じたが、出来れば、白梅隊の皆さんの、慰霊をと、思っていた。

 

那覇から、南風原、糸満にかけて、すべてが戦場であるから、どこで、慰霊の儀を行ってもよい。

 

迷いつつ、白梅の塔に辿り着いた。

 

昼間である。

しかし、そこは、暗い。

見事に、壮絶な死に様が、伺えるのである。

 

傍には、山形からの兵士の、終焉の地という、慰霊碑も建つ。

兎に角、アメリカ兵から、日本兵から、学徒から、皆々、ここで、亡くなっている。

 

洞窟という、洞窟に、遺骨があったと、思われる。

 

壮絶である。

 

言葉無し。