木村天山旅日記 

  沖縄本島南部慰霊

  平成21年9月 

 

第 4 話

本土南部には、昭和19年、1944年、7月に、第9師団が配備され、多数の陣地が、構築される。

同年、12月に、第9師団が台湾に移動すると、第24師団が、それらの陣地を引き継ぐ。

知念半島には、独立混成第44旅団が配備された。

 

沖縄戦がはじまると、負傷兵が急増し、各地に陸軍病院、野戦病院が設けられた。

 

糸満市一帯には、自然洞窟である、ガマが、無数にあり、住民の避難場所として、使用された。

だが、南部が、戦場になると、日本軍による住民の、追い出しや、食料強奪、更に、住民の殺害も起こった。

 

更に、アメリカ軍の、爆撃、ガス弾による、ガマへの攻撃により、多数の住民が、殺害されたのである。

 

6月23日、第32軍司令部壕にて、牛島軍司令官が、自決し、戦闘は、終結したが、アメリカ軍の、掃討戦は、続いた。

 

何故か。

 

あまりの、日本軍の抵抗による攻撃により、アメリカ軍の憎悪深くしてのことだと、私は、思う。

 

 

敵の目に立たない場所で、われわれはトラックを降りた。私は恐怖でいっぱいだった。狭い珊瑚の道の右側を一列縦隊で南に歩きはじめる。前方では敵の迫撃砲や大砲の砲撃音が雷鳴のように轟き、機関銃やライフルの銃声が鳴り響いている。ヒューツ、ヒューツと、味方の砲弾が南に向かって飛ぶ音も聞こえた。

「五歩間隔を保て」。命令が飛んだ。

誰も口をきかなかった。誰もが自分の思いに浸っていた。

まもなく、道の反対側を隊列が近づいてきた。陸軍第二七歩兵師団の第106連隊―――

われわれと交代することになっている部隊である。その惨憺たる様子は、彼らがどこにいたかを物語っていた。疲れ果て、泥にまみれ、薄気味悪く目は窪み、顔がこわばっている。こんな顔はペリリュー以来見たことがなかった。

すれ違いざまに目があったひょろひょろと背の高いのが、疲れた声で「あっちは地獄だぞ、海兵隊」

これからどうなるのかと不安に思いながらも、相手は私を新入りと間違えているのではないかといささかむっとして、私は言った。「ああ、わかっている。ペリリューで経験ずみだ」

相手は無表情に私を見て、そのまま通り過ぎていった。

スレッジ

 

スレッジは、志願兵である。

まだ、19歳であった。

第一海兵師団第五連隊第三大隊K中隊の一員として、ペリリュー、沖縄戦を戦った。

そして、三十年を経て、手記を書き始めたという。

 

なじみの顔はほとんど残っていなかった。四月一日にともに沖縄に上陸したペリリュー経験者で健在なのは、わずか二十六人にとどまった。また、ペリリューでも沖縄でも一度も負傷しなかった古参兵は、10人もいたかどうか疑わしい。アメリカ軍が被った人的被害の総計は、死者・行方不明者7613人、戦闘中の負傷者3万1807人にのぼった。神経を病んだ「戦闘外」の事故兵は合計2万6221人。おそらく太平洋戦争では最悪の数字だろう。

神経を病んだ兵の数が異常に多いのは、二つの理由からだと考えられる。一つは、日本軍が太平洋戦線では前例がないほどのすさまじい集中砲火を、アメリカ軍各部隊に浴びせたこと。もう一つは、死に物狂いの敵を相手に、終わりなき接近戦を続けざるを得なかったことだ。

 

海兵隊員と海軍の応援部隊「医療スタッフ」を合わせると、全部で2万20人が、戦死、負傷、行方不明のいずれかの運命に見舞われた。

 

日本軍の死傷者数はよくわからない。とはいえ、沖縄では敵兵の死体が10万7539体まで数えられた。また、ざっと一万人の兵士が投降し、約二万人が洞窟に閉じ込められたか、日本兵によって埋葬された。正確な記録はないけれども、最終分析では日本軍守備隊は、ごくまれな例外をはぶいて全滅したとされている。不幸なことに、およそ4万2000人の民間人が両軍の戦火に巻き込まれ、砲撃や爆撃によって命を落とした。

スレッジ

 

アメリカ軍の五個師団に殺された日本兵の数は、8975人である。

ゲリラ戦を行った日本兵の相当数が、殺害された。

 

―――こんな砲火のもとでできることといえば、地面にしがもついて祈ることーーー

そして日本軍を呪うことーーーだけだと知っていた。

 

たちこめる屍匂は圧倒的だった。そのとてつもない恐怖に耐える方法は一つしかなかった。自分を取り巻く生々しい現実から目をそむけ、空を見上げること。そして頭上を過ぎる鉛色の雲を見つめながら、これは現実じゃない、ただの悪い夢だ、もうすぐ目が覚めてどこか別の場所にいることに気づくはずだ、と何度も何度も自分に言い聞かせることだった。だが、絶えることなく押し寄せる腐臭はごまかしようもなく鼻腔を満たし、呼吸をするたびに意識しないわけにはいかなかった。

 

私は一瞬一瞬をしのいで生き延びていた。死んだほうがましだったと思うことさえあった。われわれは底知れぬ深淵にーーー戦争という究極の恐怖の真っ只中に、いた。ペリリューのウムルブロゴル・ポケット周辺の戦闘では、人の命がいたずらに失われるのを見て、沈鬱な気分におそわれた。そして首里を前にしてここハーフムーンでは、泥と豪雨のなか、うじ虫と腐りゆく死体に囲まれている。兵士たちがもがき苦しみ、戦い、血を流しているこの戦場は、あまりに下劣であまりに卑しく、地獄の汚物のなかに放り込まれたとしか思えなかった。

 

そして、スレッドは、最期に言う。

 

戦争は野蛮で、下劣で、恐るべき無駄である。戦闘は、それに耐えることを余儀なくされた人間に、ぬぐいがたい傷跡を残す。そんな苦難を少しでも埋め合わせてくれるものがあったとすれば、戦友たちの信じがたい勇敢さとお互いに対する献身的な姿勢、それだけだ。海兵隊の訓練は私たちに、効果的に敵を殺し自分は生き延びよと教えた。だが、同時に、互いに忠誠を尽くすこと、友愛をはぐくむことも教えてくれた。そんな団結心がわれわれの支えだった。

 

団結心 エスプリ・ド・コー

 

やがて「至福の千年期」が訪れれば、強国が他国を奴隷化することもなくなるだろう。しかしそれまでは、自己の責任を受け入れ、母国のために進んで犠牲を払うことも必要となるーーー私の戦友たちのように。われわれはよくこう言ったものだ。「住むに値する良い国ならば、その国を守るために戦う価値がある」特権は責任を伴う、ということだ。

スレッド

 

深く哀悼の意を、捧げる。

 

何故、今、追悼慰霊なのか。

忘れないためにだ。

私は、戦後生まれである。

父母は、戦争を生きた。

 

何故、今、追悼慰霊なのか。

それは、何故、私が、ここに存在しているのか、なのである。

 

それは、父母が、生きていたからである。

 

父が、最後の志願兵で、特攻隊で、命を無くしていたら。

母が、樺太からの、引き上げで、船が沈没し、死んだら、私は、今、この世に、いない。

 

私が、問題なのである。

 

私が、存在する。

それは、存在の恩としての、追悼慰霊なのである。

 

そして、それを、私は、やまと心まで、繋げた。

大和魂まで、繋げることが出来たのである。

 

つまり、私は、日本人である。

 

この、自己同一性が、私を、生かしているのである。

 

そして、日本人である皆様もである。