マニラの悲劇・衣服支援 第10話
衣服支援・マニラの悲劇、と、題して、書いたが、ただ、何をしたか、起こったかを、書いているだけである。
私の、屁理屈などは、書いていない。
今回は、前回よりも、深く、マニラの様子を見た。
前回見なかったことも、見た。
色々な問題を、私なりに、考えていた。
それを、書いてゆけば、長文になり、終わらない。
この出来事を、書きつつ、これを、おしまいにしたい。
私は、両替詐欺に引っかかりそうになった。
ある昼間、歩いていると、一人の若い男に、声を掛けられた。
何を言ってるのか解らないので、無視していた。
私を、はじめは、日本人だと、解らなかったようである。
香港とか、何とか言っている。
そのうちに、日本語で、両替できるという。
5300ペソと言った。
日本円は、高くなり、一万円が、5250ペソが、順当である。
50ペソ高いというだけで、興味を持つ。
それで、私は興味があり、彼を見た。
すると、こっち、と言う。
着いていった。
地元の、オープン食堂に、一人の中年の女がいる。
さてと、テーブルを囲んで、奥の席に、座らされた。これも、手である。私をテーブルと、人で、取り囲むのである。
さて、女が出した紙幣は、皆、100ペソ。
男が、一万円より、三万なら、5400ペソと、言う。
いや、一万円で言いと、私は言う。
女は、100ペソを、50枚数えた。それを、10枚づつ、交互に重ねて置く。
このやり方は、バリ島で、よく見ていた。
両替詐欺である。
そして、私が、数えた。確かに、50枚ある。
そして、三枚の、100ペソは、別のところに置く。
すると、女が、もう一度、数えた。
その時、私の向こう側であるから、見えないと、思っているようだが、私は、見ていた。10枚ほどの、紙幣を、二つに折ったのである。それを、上の紙幣で、隠す。
私が、もう一度、数えると言うと、女が、駄目といっているように、聞こえた。
馬鹿。もう解ってんだよ、嘘が。
すると、男が、私に、一万円を出せと、言う。
私は、財布をテーブルの上に置いて、手元でしっかりガードしていた。
さて、私は、詐欺に気づいたので、どのようにして、ここから抜けるかである。
私の左横に座る、女の背中、後ろを通らなければ、出られないのだ。その隙間は、出られると計算して、私は、オッケー、オッケーと、言いつつ、女の後ろを、腹を引っ込めつつ、出た。
そして、オッケーと、言って、その場を、去った。
つまり、オッケーということは、よろしいという意味であり、相手方は、一瞬、気を抜かれる。
私は、そのまま、そこを立ち去った。悠然と、ゴッドファザーのように・・・
そんな手口は、バリ島で、何度も見たわ・・・
経済危機から、マニラも、状況が悪化している。
貧しい国ほど、その影響は、更に大きい。
観光客を、相手にする以外になくなるのである。
その、観光客も、少なくなっている。
高級ホテルより、中級以下のホテルに、泊まる。
ゲストハウスが、プールといわれることがあったので、驚いた。満室なんて・・・
いつでも、ゲストハウスは、一部屋くらい、開いていた。
更に、ストリートチルドレンが、目立つ。
フィリピンは、カトリックの国である。
それは、スペイン統治時代に、決定された。
カトリックは、避妊を嫌い、更に、中絶を罪とする。
とんでもない、時代錯誤の、教えを、平然と、行う。
貧しいカトリックの国を、見回しても、ストリートチルドレンが多い。
一つに、そういう教えの、影響下にあるということ。
出来た子供は、生まなければならないのである。
そして、どうであろう。
私の出掛けた教会の、前の公園、その付近の路地には、そういう子供たちが、溢れる。親がいても、食べることも出来ない子供たちも・・・
毎朝の、ミサ、アベマリアの祈り・・・
私も、何度も、聖堂に入った。
しかし、そこは、外の世界とは、別世界である。
主イエスは、言う、この小さな者たちにすることは、私にすることであると。
ところが、教会は、そして、司祭は、祭壇から、降りることはない。
これ以上の批判は、しないでおく。
諦めている。
貧しい人は、教会にも、入らない。祈りも、しない、出来ない。
貧しい人が死ぬと、遺体を、道端に置いて、カンパを募る。
遺体処理のための、お金が集まるまで、そこに、置かれる。
棺桶に入っているのは、よい方である。
コンドームさえ買えないのであれば、コンドームを配布するように、行政が、考えなければならないだろう。
しかし、フィリピンは、搾取と、汚職の国。
紛れもなく、そういう国である。
更に、カトリックとは、笑わせる。
日本仏教と、同じく、世間と隔絶してある、教会である。
その歌も、鐘の音も、空しく響く。
レイテ島でも、貧しい者は、貧しくあるべくの、法的手段が、採られている。
そのことは、レイテ島のときに書く。
貧しい人々が、生活を向上させるには、暴力を持って他にないと、私は、考えた。
搾取するもの達を、暴力で、排除するしかないのである。
実に、悲しい現実である。
マニラの悲劇は、そこにある。
何人かの、人を、地元の食堂に、連れて、行ったとき、店の人は、嫌がることはない。
本当は、そのようにしたいのである。
だが、それをすることは、出来ない。そんなことをすれば、一日で、商売は、駄目になる。
私が、お金を払うから、客として、対応する。
嫌がることなく。
そして、私に、店の人は、目礼して、感謝している。
助け合いたいのに、それすらも、出来ないでいる。
それが、マニラの悲劇である。
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