木村天山によるメールマガジン 21世紀の成功哲学 バックナンバー 成功の条件 

 成功哲学18

 成功には、百人百様の成功があるということである。

 人様の成功を学んで、成功の何たるかを知ろうとすることは、実に愚かなことである。それを言うために、私は、この成功哲学を書いてきた。

 成功するという言葉の魅力と、まやかしに乗ってはいけない。どんなに成功者の成功の跡を辿っても、成功には至らないようになっている。アメリカからきた成功哲学には、あたかも、成功のルールがあるかの如くに言うが、あれは魔界からのものであることを、はっきりと言っておく。そろそろ、いい加減にした方がよい。

 何々王と言って、成功の主のように言われている本人は、成功など考えていなかったはずである。ただ、やりたいこと、やるべきことをやったまでのことである。それが、唯一、学ぶべきことである。

 もう一つは、運である。これについては、いずれはっきりと書くことにする。

 キリスト教の母体の成功哲学は、キリストの言葉からなる。求めよさらば与えられんというキリストの言葉から発する。彼のキリストは、十字架に張り付けられて死んだ。

 キリスト教の母体の人々が、キリストの本当の説教の意味を知らないという驚きを、私はおぞましく感じている。叩けよさらば開かれんと言うキリストは、全くキリスト教徒が言うお話しの意味ではない。

 求める者は与えられるというキリストの言葉の真意を知るキリスト教徒がいないという、驚愕である。それを嘘八百の宇宙の原理のように語る愚か者の言葉を信じて学ぶ人の、また愚かなること。

 求めて与えられないから、生まれてきたのである。叩いても、叩いても、開かれないのである。与えられた、開かれたと思うのは、妄想である。

 人間を万物の霊長だと信じて疑わない愚か者に、それが解るはずもない。

 人は暗示によって、成る者になる程度が関の山である。

 信じて疑わないという行為は暗示である。キリストは、種ほどの信仰があれば、山をも動かすと言った。しかし、キリスト後、2000年は、確実に山を動かすほどの信仰を持った者はいないのである。結局、出来ることからしか、出来ないのである。

 私の言いたいことは、そういう土台の成功哲学なるものは、まやかしであるということである。信じて成るという次元の程度では、本当のことは解らない。その程度の次元での成功なのである。要するに、この世の人に称賛される成功である。笑ってしまう。

 私は、この世は、また宇宙は、因果の法則と、自業自得の法則にあると言った。人生は、ほんのある断片を切った程度のものである。それ以前と、それ以後の「我」なるものを知らないのである。生まれてから死ぬまでの、因果応報ではない。人生は、「我」の一時の流れの一つであるという、事実である。

 それを知らなければ、成功など、何の意味もない。無いものと同じである。

 キリストの説教の言葉を理解するのも、そういうことである。つまり、求める者は与えられるであろうという、次元が違う。求める者が我であり、与える者も我であるということを知らなければ、何も解らない。

 神に与えられると解釈しているのであろうが、神は、すでに与えている存在であり、それ以上の何を与えるというのか。それを知らない。実に、キリスト教という宗教も、次元が低いのである。キリストの説教の意味を正しく解釈し得ないのである。

 神を人間のように次元の低い程度に置いているということを知らないのである。

 だから成功を神に祈るという言葉は無い。求めるのは、自分にである。叩くのも自分に叩くのである。それを知らずに、何か、どこか、誰かに求めると感じさせる程度のお話しでは、話にならない。

 この文章は、説明不足の事、多々あるが、私は、成功哲学を持って商売する者ではないから、突き放して、書かせてもらっている。

 知る者は、知ることである。

 私が私に何が出来るのか。それを考えることが成功の法則である。