木村天山によるメールマガジン 21世紀の成功哲学 バックナンバー 成功の条件 

 成功哲学20

 ボケ防止のために、音読し、簡単な計算をするといいらしい。ボケては何もならないということなのであろうが、ボケは本人が知らないから、幸せであるはずだと思うが。

 周囲の人に迷惑をかけたくないと思うなら、絶食して死ぬことを考えればいいと思う。長く生きることが幸せなことではないからである。だが、生きたいという欲求を、私は誤りだとは思わない。本人の思想がそれを決める。

 さて、既成の成功哲学も、ボケ防止の方法に似ている。最近出たアメリカの成功哲学は、自分の行動を、お金に換算するというものである。笑ってしまう。しかし、大まじめに、それを説くのである。自分がいかに行動したかということを、金に換算する。例えば、妻に優しくしたことも金に換算するという図である。心を砕いたことを、金に換算して、自分は、よくやったと思うという満足感である。アメリカでは、それで多くの人が、幸せの成功を得ることが出来たという。実におめでたい。

 自分の行動が、これ程の金になるのだと思う心が、哀しいのである。それを知らない哀しみもまた、哀しい。

 それがひいては、実収入につながるという説である。金を集めるための愚劣さを身につけるということであろうか。そして、成功した暁には、他人に優しくなり、それは神の愛を実行することになると思っているのか。その神は、魔界の魔神であろう。

 どう方法を変えても、アメリカの成功哲学なるものは、魔界的である。

 さて、それについては、哀しくなるばかりであるから、止める。

 この私の成功哲学も、今回で終了することにする。言いたいことは、ほとんど書いた。

 突然、飛躍したことも書いたが、それはそれでいいと思う。書いた者の責任は書いたことで終わる。書かれたものは、読まれて価値がある。読んだ者は、それを、どう判断し批判してもいい。

 最後に、私の言いたいことは、この世に生まれて生きているということは、私が私に逢いたいがために生きているということである。

 縁あり、出会う人は、すべて私の写しである。これが真実である。正しいのである。何故なら、私以外に私を知る者はいないからである。私の存在は、私にしか解らない。私が実存の主である。もっと言えば、私は神なのであるという言い方もできる。

 私を離れて私の意識はない。私を知らない人は、人を知ることもない。人は私であるからだ。

 私は成功などという言葉に、特別な意味を感じないが、成功という言葉に意義づけをしてきた。

 私個人としては、成功という言葉より、大和言葉の「かんながらのみち」つまり唯神道という言葉に、重きを置いている。唯神の道である。神とは私の完成した姿である。その私の完成を求めて、転生輪廻して生きる。と言うと、私が何度も生まれ変わり死に変わりしていると誤解する人が多いが、私が言う転生輪廻は、この場にいる私が、生まれ変わるということではない。この私は、この人生で終わりである。

 肉体というものが、いかに大切なものであるかを私は知っている。それについては、いずれ書くことにする。

 転生輪廻を正しく言えば、私の魂の分霊が次の人生に関与するということである。それだけの話である。だから、私という人格は、この私で終わりである。

 私のすべてが次の世に生まれるということではない。次元の違う話であるから、難しい。 前世があるという言い方は間違っていないが、真実ではない。前世の意識を持つのであり、それは私ではない。私は、この私以外にいない。

 転生輪廻を説く宗教の過ちが支配して、誤解されていることを言う。

 私は、肉体と精神と心と魂によって成り立っている。精神は肉体に添うものである。心と魂は、肉体から離れて活動するものである。それは時空を飛ぶ。魂は次元の高い世界にコンタクトするものである。

 精神は、脳の前頭前野にある。心は水落の辺りに少し離れてある。魂は、脳の側面に少し離れてある。科学はそれを証明できないから、もたもたしている。では私が何故、それを知るかといえば、私は、直感で知った。だがそのために、長い年月を必要とした。

 さて心までは、少し意識できるが、魂までは意識できないのが普通である。無限に広がる無意識世の世界を開けば、生きることは困難である。ユングは、大変な発見をした。だがそれは、意識の進化である。必要最低限の発見をした。

 もう一つ重要なことは、肉体の意識である。身体意識とやや意識され始めたが、まだそれは曖昧である。この肉体の意識が、実は重要なのである。

 魂が肉体から離れても、肉体意識を持つという考え方は、今の今まで、誰も言わない。肉体の無いものが、地獄の火に焼かれることは無い。あれは、例え話である。仏教の転生輪廻の考え方は、インドで発生した。古代インドは、屁理屈の極みを行った。かろうじて、少し真面なことも言うが、完全に捕らえていない。それは、低次元の霊界の情報だからである。なにせ、インドも魔界に支配されて、屁理屈ばかりを捏ねていた場所である。終わることのない屁理屈は、結局、魂の救いに至らなかった。今でも、インドは、そこから脱却していない。人間に格差をつけるカースト制が生きているという図である。仏陀があれ程、人間平等を唱えたが、それはついに定着しなかった。そしてついには、仏陀もヒンドゥーに取り込まれてしまうという様である。

 勿論、日本仏教も商売に取り込まれてしまった。単純明快な仏陀の観たものが変節して、どうでもない教えになって闊歩している様をみると、驚きを通り越し、絶望するあの屁理屈が、後々までに至り、それが日本でも行われて、仏陀の四方山話も理論とされ、しまいに教義になるという仰天である。救い難い経典を続々と編み出して壮大な思想体系を作り出して、今の今まで人を救わないという仰天である。

 理屈が過ぎれば、理屈に溺れる。成功哲学も理屈が過ぎれば、理屈に溺れるので、この辺でお仕舞いにする。