木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 日々徒然28

 以前、人間の生理について書いた。再び書く。

 新聞に、こんな川柳が載っていた。「夫逝き 慟哭するも 腹が空き」

 夫を亡くして、悲しんでも、腹が空くということで、うまい川柳だと感心した。

 どんな絶望的状況の中にあっても、人間の生理は、救いになるのである。

 絶望のどん底に落ちた時でも、ウンコやおしっこ、屁が出る。その時、悟ることである。 人間は強いものであると。それでいい。

 この世のことで、死ぬ程のことはない。

 人間には先しかないのである。つまり生きることしかないのである。皆、死に向かって生きるのであるから、その差は、少しのもの。10年先に死んでも、後に死んでも。大差はない。100年の差で死んでも、後では、同時代に死んだことになる程度である。

 人間の生は、笑うしかない程、儚いものである。それは、私だけではなく、皆、そうなのである。それを知ること。それを知ることは、悟ることと同じである。

 絶望からの出発は、人間の生理で始まる。

 小難しい理屈はいらない。

 だから、特別な修行など必要ない。あの思い出しても、ぞっとする事件を起こした宗教がある。彼らが、悟る、悟る、そして信者に悟れ悟れと脅していた。

 はっきり言うが、悟りとは、宗教的修行にあるのではない。日々の生活の何でもないところに、悟りはあるのであり、もし、心霊的な状況が必要であれば、つまり、特殊能力が必要なのであれば、毎日、太陽を拝すればよい。太陽を拝していれば、軽い病など、手当をして治すことが出来る。

 輸入してきた宗教は、学ぶことに利があるが、実は、日本の伝統的な神道に、宗教の大本があるのである。教祖も教義もない神道が、続いている。そして、生活の中に入り込んでいて、神道ということも忘れられているとは、さまに、宗教である。

 私が言う神道とは、神社神道とは違う。縄文期からの、日本人の原始宗教体験の伝統である。

 私は、20年程前に、米を研いで、その米が水を含む時に、プチプチと音を立てるのを聞いて、悟ったことがある。それ以来、悟り続けている。

 禅の僧は大悟するという言い方をするが、素人は、日々の生活の中で、悟り続けるのである。

 悟りと同じ言葉は、観たということである。物の姿を明に観るということである。

 仏陀は、観たのである。人間の実相を。

 それを淡々として説いた。それが、巨大な教義に発展したのである。

 高天の原神界に縁した、ある神道家は、仏陀の言葉を、単なる、戯れだと、喝破した。私は、それについての善し悪しを言う資格はない。仏陀の言葉で、勉強させられているからである。しかし、そういう人もいる。

 私はカトリックの教養も持つ。その教義を学んでいる。神道だけを、完全だと言うことはない。方法の違いである。

 さて、話を戻すと、絶望の中にあっても、生きられるように、生理は、感情の高まりとは別にあるという恵みである。

 ゲーテは、涙と共にパンを食べたことのない人、幾夜も枕を涙で濡らしたことのない人は、人生の秘密を知らないと、言った。

 生きている以上は生き続けるという命題が人間にはある。

 矢張り、最後の最後まで生き抜くことである。