木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 日々徒然52

 突然だが、日本の心とは何かと問う。今こそ、日本の心を説かなければいけないと思う。 今の時代を歴史に照らして見ると、平安時代に似る。

 和辻哲郎の『「もののあわれ」について』から引用すると「平安朝は何人の知るごとく、意力の不足の著しい時代である。その原因は恐らく数世紀にわたる平和な貴族生活の、眼界の狭小、精神的弛緩、享楽の過度、よき刺激の欠乏等に存するであろう。当時の文芸美術によってみれば、意志の緊張、剛強、壮烈等を賛美するこころや、意志の弱さに起因する一切の醜さを正当に評価する力は、全く欠けている。意志の強きことは彼らにはむしろ醜悪に感じられたらしい。それほど人々は意志が弱く、その弱さを自覚していなかったのである」と言う。全く今の時代のことである。

 違うとするところは、貴族ではなく、一般の男であるということだ。今は貴族はいない。 その平安朝に、何と女の心から出る「もののあわれ」が生まれる。本居宣長は、それを日本人の心と言う。が、しかし、私は違う。

 私は日本の心を万葉集にあると信じる者である。承知のとおり、万葉集は、上から下まで、多くの民から、天皇までが歌い上げた和歌である。

 私は万葉集を「いのちの賛歌」であり、「日本人の心の古里」と考える。

 629年から759年に至る130年間、つまり飛鳥、白鳳、天平時代に渡る。ここに日本の心がある。それは、それ以前の日本の歴史を包括している。縄文期から脈々と受け継がれた日本の心を、万葉集は集約している。そして、平安に「もののあわれ」の思想が生まれ、鎌倉時代には、日本の精神が生まれる。

 その核に万葉集がある。日本の心とは何かと問われたら、私は即座に「万葉の心」と言う。それには国を愛し、人を愛し、自然を慈しむ人の心がある。

 世界に類を見ない言葉の世界を有する日本人の心である。すなわちそれを、言霊とも呼んで貴ぶのである。その大本には、音霊というものがあるのだが。

 その万葉集の最高傑作である、岡本天皇の御製歌一首(舒明天皇)

 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜(こよい)は鳴かず 寝宿(いね)にけらしも

 「いねにけらしも」とは、もう寝てしまったのであろうか、という意味である。

 何事のない自然の情景であるが、無限の静寂と、森々と静まり深まる宵闇である。その沈黙の中で、佇む。斎藤茂吉は、「いねにけらしも」を、まさに古今無上の結句であると言う。あの時代に、すでに沈黙と、静寂を極限にまで高めた歌詠みがあったとは、感嘆の一言である。舒明天皇とは、あの大化改新を断行した天智天皇、そして天武天皇の父親である。ここにも深い意味合いがあるが、省略する。

 単なる抒情ではない。極限の哲学、思想がある。語り尽くしても尚足りない欧米の哲学や思想とは、隔世の感がある。

 俳句の言葉の世界もそうだが、省いて省き尽くした後の言霊の世界が、日本人の心である。宇宙大の世界を、31文字で現す。精神は文章として昇華するが、歌は心として昇華する。これが日本人の心である。