みたび 日々徒然1  木村天山

 私の宗教観について書く。

 私の御神体は太陽であり、神殿は自然である。これ以外の何物でもない。

 以下書くのは、他愛もないことである。

 太陽がなければ、人類は無い。自然がなければ人類は無い。これを神と言わずして、何を神と言うのか。私は、多くの宗教の教義を通して、人間を学んできたが、神や仏を学ぶことがなかった。それらは、皆、人間が創造したものである。

 どの教義にも、それが絶対という但し書きがある。この世に絶対なものはない。この世は相対であるから、絶対のものは無い。絶対的なものがあるとしたら、それは宇宙と自然である。こんな当たり前のことに気づかないのは、気づかないだけの自然さがあるからである。だが、古代人たちは気づいていた。理屈抜きに気づいていた。それは言葉が発達していなかったからである。

 言葉が神として成り立つのは、言葉によって神なるものを意識し始めたからである。それでは遅い。大和民族は、言葉の一音に神を観た、類い稀な民族である。だから、多くを語らない、言挙げせずという姿勢を貫いた。言葉にすることは、実現化すると知っていたからだ。これは驚愕する思想である。

 人に弥栄を掛けると、人は幸せになる。人に呪いを掛けると、人が呪われる。言葉の力を知っていた。言葉を重ねて哲学を立ち上げたギリシャなどの国は、言葉によって滅びた。本当の言葉の意味を知らずに、多量に使用していたからだ。西洋哲学も、しかり。言葉を重ねて、語り尽くすことは出来ない。そうして始めて言葉以上のものを知る。しかし、それを知らない人が、哲学を教えるから、哲学は救いにならない。

 一つ言っておく、マルクスという思想家が共産思想を書いたというが、あれはウソである。言葉を巧みに使用して、とんでもないウソを書いた。それを、一時期の人々が、命懸けで学び、実行しようとしたと思うと、哀れでならない。あれは空想のお話しである。あたかも、真実であるかのように言葉を使用した。言葉を重ねて、言葉の闇に人を陥れた。西洋思想に、そういうものが多い。ウソは、語れば語る程、ウソになる。

 大和民族は言葉が発達しても、和歌のように、多くの言葉を使用せずに、それも単に音のみの31音で言葉の世界を作った。ここに立ち戻るべきである。

 念仏も、題目も日本人が最初に使用した。多くの言葉を必要としない民族だから、宗教家にそれを実践させた。

 言葉は神であるから、大量に用いてはならないのである。

 それから余計なことだが、言っておく。古事記の最初に登場する神々は、皆独り神である。これは、驚嘆することを教える。人は、独りで完成するものであることを教える。対で完成するものではない。雄雌があって生殖行為をして、産むとなったのは、つい最近である。それを持って、夫婦で一つなどと考えるのは、迷いである。夫婦になるのは、独りで完成するために、学ぶ意味での夫婦である。核は一つであり、完成している。人は独りで完成するものなのである。

 太陽に戻る。太陽は一つである。それで完成している。人の魂は太陽に似せて作られてある。だから、私の御神体は太陽なのである。自然が神殿なのは、もう言わなくても解るであろう。私は神の息吹の中で生きている。それ以外の場所では生きられない。

 私の宗教観は、満ち満ちる溢れる神のエネルギーの中で生きているということである。

TOP PAGE 各種エッセイ目次