みたび 日々徒然3 木村天山

 心の姿勢は行為になって現れる。

 どんなに心を込めた料理でも不味いものは不味いのである。心を込めるというからには、まず料理の腕を磨くことである。その方法を知って、身につけて始めて心を込めるという行為が出来るというもの。

 要するに方法を知らなければ、始まらないのである。

 この時代の優しさは妄想により成り立っている。優しさがあると思っているが、妄想なのであるから、どうしようもない。妄想のいったんを言う。書籍の広告に「泣きます、泣かせます」等々のコピーがつく。「あなたはこの優しさに泣きます」もはや本の世界の中でしか優しさを感じられない程に鈍磨したといえる。

 妄想の優しさに泣いて、隣近所の人には、鬼のように接するという不思議である。信者が教団の中では良い人であるが、一歩外へ出ると鬼になるのと似ている。

 優しさを行為にしたら、それは礼儀作法になる。優しさというは、礼儀作法に支えられてある。これを私は高らかに言う。

 礼儀作法とは、小笠原流の作法のことではない。社会に生きる最低限の処し方である。礼儀作法の最も足るものは、挨拶であろう。

 もし挨拶が出来ないのであれば、完全に社会性が無いと言える。また挨拶が出来ないということは、優しさが無いということである。妄想の優しさに泣いても、挨拶が出来ないのなら、その妄想は、人生をも妄想にしてしまうであろう。

 最低限の礼儀作法の学ぶ場所は家庭であるから、家庭で教えられなければ、身につけられないということになる。つまり優しさは家庭から始まるのである。

 家族の中だけで優しさを発揮しても、外に出れば鬼になるという人が多い。身内と他人を事のほか分ける。家の中では「ありがとう」も「ごめんない」も言うが、外に出ると、そんな言葉が全く出ない。

 そういう人が続々と現れている。

 社会に礼儀作法の優しさが失われると、殺伐として人は孤立する。人が孤立すると、それは死を意味する。社会的死である。妄想の優しさだけが跋扈して、社会は死ぬ。

 もう一つ、妄想の感動が跋扈していることも言う。感動とは、この身で体験すること、感じ取ることである。しかし、今感動は本やビデオや映画という、与えられるもので享受するという不思議である。生活の中に感動を見いだせない不幸を知らない。勿論、それも一つの感動ではあるが、それが妄想であることは、感動は、行為を生むのであるが、それらは行為を生まないのである。妄想と言うしかない。

 朝の太陽を見て、当たり前だと思うが、感動しない。こんな不幸なことはない。

 人が小細工したものを見て感動するが、道端に咲く花を見て感動はしない。

 朝、目覚めて自分が生きていることに感動出来ないという、生きる実感を忘れての感動は、妄想である。「おはよう」という言葉の意味を誰も知らないが、「おはよう」には感動がある言霊なのである。お早うと書く。ただ早いということではないだろうが、言霊を知らないから、知る術がない。哀れである。

 実は、何も無くても感動する事態が数多くあるのであるが、それを知らない不幸は、哀れである。男女の中も、優しさは辛うじてセックスの行為の中にあり、それ以外は孤立しているということに気づかない。唇寂しいので、この辺で止める。ごきげんよう。

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