みたび 日々徒然4            木村天山

 イラクのファルージャ総攻撃を痛む。

 約3000人いると言われる武装勢力に、約2万人の兵力を持って対峙している。戦争である。人口30万の町を圧倒的な力で攻撃するということに、深く心が痛む。

 今もって、そんなことが行われるという事態に、私は驚愕するのである。

 戦争反対と言う人々よ、何とか言え。

 空念仏の戦争反対を唱えている、アホな日本人は、ファルージャの市民の悲しみが解るか。戦争反対と言っている限り、戦争はなくならないのである。

 人は行為によってしか、人になり得ないのである。

 武装勢力一掃のために、何故町全体を攻撃する必要があるのか。

 この分析については、多くの識者、新聞等が書いているので、私は言わない。私が言いたいことは、戦争に関係のないイラクの人々に寄せる想いである。

 11/8には、市民15人が死んだ。少年少女も含めてである。死ぬ理由がないという不幸である。この怒りを私は、祈る。ただ祈る。祈って祈り祈る。

 テロリストと正義の戦いのように見えるが、何のことはない、実は、根はイスラムとキリスト教の戦いである。いつ果てるともない戦いを続けている愚かさである。私が飛躍したことを言うのではない。イスラムが出来上がった時から、キリスト教は、異端として戦いを挑んでいた。キリスト教の異端に認定されると、それは人間ではなくなる。カトリックが、どれ程の残虐行為を繰り返して、他宗教、他民族を皆殺しにしたか知れない。その反省に立てば、この事態にローマ法王は、もっと強いメッセージを放つことであろうが、極めて遺憾ながら、キリスト教国に強く発言しないのである。

 そして悲しむべきは、イスラムという宗教にある、派閥、宗派の違いが戦いを生むという事態である。およそ、日本人には理解しがたい、宗教観である。

 同じ根から出たものは、その憎悪が激しくなる。親しければ親しい程、憎悪が強くなるという実態を私は観る。

 あたかも、攻撃しなければ、イラクに平和が訪れないというような、一面的な物の考え方をアメリカはするが、何のことはない、アメリカの価値を押し付けたいだけであろう。つまり、キリスト教の奢りそのままを実行している。実は、キリスト以前の異端と異民族に対する冷たさは、今も変わらずにある。アメリカは、他人に冷酷無比である。キリストの説いた愛の行為は、空念仏と化している。当然であろう。神の愛を説いたキリストは、十字架刑になっている。自分たちの神を殺すという愚を行ったのであるから、その心は推して知るべしである。今もって、神を殺し続けているのである。解るか。

 だから、私は祈る。

 人を殺してはいけない。人を殺すことは罪である。これが、神の掟である。何人も、人を殺してはいけない。一人を殺せば、殺人刑になるであろう。戦争は、一人、いや、とんでもない、見たこともない、知らない、全く関係ない人を殺し続けている。

 私は言う。大罪を犯しているのである。

 アメリカもイスラムも、よく聞け。汝らの拝む神が、偽物であることを、言う。いつ果てるともない殺戮を平気で犯すという、その行為に神が介在する訳がない。

 汝らの神なるものは、想念で作り上げた魔物である。であるから、汝らは神を知らない。 哀れである。そして因果応報、自業自得という実相の掟が、今現実化することを言う。

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