みたび日々徒然 7   

木村天山 著

 携帯電話についての朝日新聞の世論調査で、20代の3割が「ない生活は考えられない」という結果だった。それに対して識者たちは危惧する。

 曰く「人と人が向き合うことで得られる大切な《つながり》が失われている。いつでもどこでも、つながりを求めながら、つながりの薄れる時代なのか」と。

 こういうのを老婆心とも言うのだろう。また、携帯を哲学、文学するというのだろう。要するに、わざわざ難しく考えて危惧するのが、識者であるかのように。

 携帯電話は、この時代の救いである。

 つながりの薄れる時代の、つながりを深める救いである。人と人が向き合うことを、体面するという意味で言うのであろうが、体面してもつながりが深まるというものではない。携帯電話という変換器を用いて、我と汝の関係を作ると言う新しい時代なのである。

 さて、余計なことを言う。携帯電話は、記憶の名残によって生まれたものである。つまり、人間はテレパシーで話し合う、伝え合うことを知っている。その記憶が、携帯電話を発明させたと言える。

 肉体を離れた霊体は、言葉ではない思念の世界に行く。そこでは思いがストレートに伝わる。いつでも、どこでも、どこにいる人とでも、思いが伝わるという記憶がある。これが携帯電話の真実である。

 携帯によって、人間関係が希薄になると思い込むのは勝手だが、それは、そう思う人にのみ言えるのであり、また、そういう人は、進化出来ない昔の人なのであろう。

 いつでも、どこでも出来ないという不便な通信手段を持って、人間関係を作っていた頃の懐古であろう。

 人間関係も進化しているのである。

 若者は進化に適応する。当然である。若者は明日を生きるのである。

 バーチャルという言葉が出た時に、ようやく、人間は人生がバーチャルであることに気づき始めたと思った。人生自体がバーチャルなのである。人生というバーチャルを生きて、実相の世界を知ることが、人間の最高の知恵である。

 世の中の進歩は、すでに人間の記憶が持っているものが現れているだけの話である。無いものを、どうして発見出来るであろうか。我が内にあるから、発見発明出来るのである。 携帯電話が益々進化して、さまざまな機能を持ち、その機能の使い方が個性となる時代が来る。当然である。電話が私になるのである。そして、携帯は、時代の救いになる。失われかけた人間性の回復に寄与する。

 どれ程の人が、携帯によって救われるか、計り知れない。

 耐えられない孤独にある時、携帯メールが救いになることは、想像に難くない。遠くに離れていても、携帯によって、つながりが持てるという安心感は、救いである。

 携帯がテレビ電話の機能も持つという。携帯電話が人格を作るまでになる。携帯電話の作法が、人間としての作法になることだろう。

 ちなみに、私は携帯を通信手段としてのみ扱っている。それ以上のことは、考えてない。昔の人のように、固定電話もあり、手紙も葉書もあるからである。私は、通信手段を私という人格が、有効に利用するのである。つまり主体は、私である。

 憂うるべきは、主体を失った時であろう。私という主体を失ってしまえば、人生も何も無い。若者に伝えるべきは、主体性に尽きる。

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