みたび日々徒然

木村天山 著  

 死について言う。

 人間は、肉体と幽体、霊体、そして魂によって成り立っている。これは信じるとか信じないとかの問題ではない。もし、信じる、信じないという議論をするならば、これを読む必要は無い。

 肉体を離れた幽体は、霊体と魂と共に、次元移動をする。幽体は、まだこの世のものであるから、この世に留まることもある。あまりに強い思いがある場合は、特にそうである。しかし、この世に未練なく、次元移動が出来るなら、霊体と魂に統一されて、霊界に入る。霊界とは、あの世と言われる次元の別な場所である。

 つまり死とは、次元移動するということである。死んだら、すべてが無くなる、無に帰すると考える人は、大半が幽霊のままに、この世に留まることが多い。それはその人の愚かさであるから、その人自身が気づく以外に、方法はない。

 葬式をするのは、その人に死んだ者であることを自覚させるためにある。そうでなければ葬式の意味がない。死後の世界を知っている人には、葬式など全く関係ないのである。 魂の抜けた肉体は、単なる物、肉の塊であり、気の抜けたもの、神道では穢れ、つまり気が枯れた物として扱うのは意味がある。魂という気が抜けたのであるから、穢れた物なのである。

 魂は清浄であるから、死後の肉体は、さておき、死ぬと、その魂に語りかけるのが、本当である。そして死によって清められた魂とでも言おうか。

 霊界にて、霊体をすぐに脱ぎ捨てる魂もある。生前の整理がつかない人は、中々霊体を脱がず、反省の次元に留まる。この人生の意味を黙想するのである。

 学ぶことが解れば、霊体を脱ぎ捨てて、魂の本来の場所に帰る。しかし、それは並大抵のことではない。魂、つまり神の世界であるから、神の波動に相応しい波動を持って向かわなければならない。さてまた霊体が、霊界で生前のように生活する場合もある。

 しかし、これはどうでもいいことだ。私の言いたいことは、死後の世界があるということである。人間は死なない存在なのである。

 人間が死なない存在であるとは、知恵である。知識では、それを理解することは出来ない。科学という知識では、解ることは出来ない。人間が進化してきたものであると、信じているが、その根拠を未だに知ることはない。人間は初めから人間であったからだ。進化論というのは、一つの仮説に過ぎないし、暇つぶしの研究である。

 ただ、こういう言い方は出来る。魂が最初にあり、その魂が宿る肉体を探していた。それが人間として進化している動物だったという言い方である。ギリシャ神話には、一部、動物の体を持つ神々が描かれているが、あれも、その一つの模索である。魂が宿らなければ、人間は人間足り得なかったのである。だから、人間は人間として最初から人間だったと言う。

 霊体から転生して、生まれることもある。いや、それが大半であろう。魂から、転生する人は稀である。魂から、この世に生まれることは、大変な労苦が伴う。波動が荒いために、苦労するのである。次元が高くなればなるほど、波動が微妙になる。細やかな波動になる。粒子が細かくなるとでも言う。それはこの世の岩をも通す。霊体でも、岩をも通すから、霊界からこの世に天下るのは、易しいことである。

 人間に宿る魂は死なないということを言う。

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