みたび日々徒然 103

木村天山   

 

 ある朝のこと、通りがかった、ある小さな天理教教会から、朝のお勤めの拍子木の音、太鼓の音、そして祈りの言葉が聞こえた。母方の祖父母が天理教であり、懐かしい思いを抱いた。霊界入りした、私の祖父母を思い出した。

 天理教の是非を言うのではない。人は、縁ある宗教に入信するであろうし、また憲法にも信教の自由が保証されている。霊学から観ても、信教の自由は、当然である。

 私は天理教ではないが、教祖中山みきの教えを少しは知る者である。願わくば、祖父母が教祖以上の霊界の上段界にいることを願う。

 教祖というのも一つの表現方法である。

 これから、驚愕することを言う。

 霊学から観ると、宗教というものは、霊的行為があって初めてなされる。霊的行為とは、それは魂の段階で行う行為である。具体的に言う。霊界とは、次元の違う世界であり、この世の言葉は通用しない世界である。波動のみが通ずる。祈りの言葉は、波動となって霊界に届くのである。これを誤ってはいけない。極端な言い方をすると、言葉という祈りの行為も無くていいのである。

 要するに言葉に頼る祈りは、堕落するのである。

 念仏だけを唱えて救われる。題目を上げて救われる等々、宗教には、祈りの言葉が必要であるが、極めて言えば、言葉の無い世界に至る。息遣いが念仏になり、題目になる時、それが本当の祈りになる。

 また、これは多くの宗教家を否定することになるが、建物を建てる宗教は、宗教に似たものであり、本来、宗教は建物を必要としない。それは古神道を観れば解る。神の降臨を願う時は、自然の草木、石、あるいは、山、海に降臨を願い、奉り、共に食し、踊り、神振るいをして終わると、霊界にお帰りいただくのである。

 神殿は、大宇宙であり、御神体は、太陽である。

 高い次元の神と名乗る神霊は言葉を発することが無い。つまり言葉に出来ないのである。この世の言葉で語れないから、次元が高いのである。

 新興宗教のある教祖が、霊言などを本にしているが、霊界を知る者、霊学を知る者には、それがウソであることが解る。天照の霊言を聞いたとしたら、低レベルのお調子者の人霊が、一人語りしているものを聞いて、それを天照大神の霊言だと信じてしまったのであろう。愚かしい。我は何々の神であるぞと、最もらしくコンタクトしてきたら、それは神ではない。神は、言葉を発しない、沈黙の存在である。また、この世の次元まで降りて言葉を発することは、あり得ない。すでに自然界を通して波動にて伝えているからだ。

 建物を建てる宗教は、宗教もどきであるから、大半がもどきである。組織を作る宗教も、誤りである。本当に、神の波動と一になっているのであれば、この世の物に関心がない。また、この世の物で表現することは不可能であることを知っている。

 私は祝詞を上げるが、祝詞が必要ではないことを知っている。それは私のために必要であり、私の祝詞を神は必要としない。大切なことは、私が高い次元の霊界の波動を持つか否かが問題なのである。いくら、深く言葉の祈りをしても、それは私のための行為であり、神との対話など、あり得ない。

 神の次元に高まらなければ、神と直接対座することは出来ない。

 またもし、神と直接対座出来る人間であれば、すべてこの世の物を捨てている。無為の人になり、八百万神と共に、自然の波動から、神を感じて生きる。

 宗教的所作というものは、心を鎮めるためのものであり、言葉の祈りは精神を満たすものである。それが堕落すると、自己催眠となる。私は、大半の宗教的行為が、自己催眠であることを知っている。

 また信者の方が、教祖より高い次元の霊界にいることも知っている。

 病気を直したり、千里眼を用いたり、奇跡を起こす者が教祖になるが、低レベルの霊界、三次元と四次元の境目の霊界の力を借りても、そんなことは軽々と行うことが出来る。

 キリストは奇跡を行ったが、仏陀は奇跡を行わなかった。風土と、神の種類の違いもあるが、本来は仏陀の方法が、最も宗教的行為である。

 神は奇跡を行わない。すでにすべてが奇跡だからである。

 死人を生き返らせても、人は死ぬ。病気を直しても、人は死ぬ。本当の奇跡は、死なない人間である。そんな人間は、いない。キリストも仏陀も死んだ。

 理解出来る者は理解するべきである。

 追)神、仏とは、エネルギーに似ている。自然を観れば解る。そして言葉自体は、それぞれの人のオリジナルであり、その存在感覚も人それぞれ違う。

 人霊を神とする宗教が分派して争うのを観るにつけ、私は、次元の低い霊界を感じる。何度も言うが、次元が違えば通じない。よって神の次元と導通しなければ、神を知らない。人霊を教祖とする宗教は、宗教の手前の段階である。

 私の宗教の定義は、この世のもので表現出来ないものであり、この世の言葉で語ることが出来ないものである。よって、教義や教理等々の言葉の世界を持つものは、もどきである。教えは行為によって成されるのであり、言葉によらない。言葉によるものは、暗示や催眠術と同じである。

 納得する教えというものは無い。たかだか数パーセントの脳で理解出来る世界は、神や仏の世界と遠いのである。

 そしてまた、肉体を持つ人間であるということの真実に気づかず、肉体の重きを知らない宗教の教義は偽物である。肉体の欲望を満足させて、肉体の真実を知るために、肉体を得ている。肉体の欲望を罪とか、低レベルのものとする宗教の教義は、ナンセンスである。肉体を心地よくして始めて、人は人であることの喜びを知る。それを支配し人間の欲望を否定する宗教が本物であるはずがない。

 性を否定する宗教の過ちは、観ていて余りある。快楽と言う言葉で洗脳して、信者を支配すようとする愚かさに、私は、絶望的になる。

 何ゆえに人間が肉体を得ているのか、この何千年の間、宗教によって押さえ込まれていた事実は、それこそ罪である。何を根拠に欲望を否定するのか明確に知らず、欲望を否定するという愚かさである。

 熱心な信者に、心身共に不調である者が多いのは、それが誤りであるからだ。

 例えば、男を知った女の体が、欲望否定されて男を遠ざけると、精神不安定、そしてホルモンバランスを崩し、人を殺すまでに狂うのである。有り余るほどの性的エネルギーを否定された若者が、精神異常をきたす。それは精神のみならず、体と心の不調から、因縁までも脊髄に流し込んで、狂うのである。

 理解出来る人は理解することである。

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