みたび日々徒然 105

木村天山   

 

 時代は、人を孤立させている。その孤立した人々が、ネットという幻想の中で、生きていると思い込んでいる様は、哀れを通り越し、悲劇である。

 ある青年が「自分は孤独だ」と言う。仕事の関係でも、友人の関係でも話が通じないと。部屋に戻って独りいると孤独感がひしひしと、ひたひたと身に染みると。

 それで、いい。

 人は孤独である。絶対孤独である。

 人は独りで完成するものであることを自覚する時、人生が見渡せる。

 孤独は孤立ではない。社会の中で生きて、その社会生活で絶望を感じて、それでも社会と折り合いをつけて生きることは、すなわちこれ修行である。自分というものが、完全に理解され得ることはない。自分ですら、自分を理解し得ないのである。人が理解するはずがない。それでいい。

 人生は待つことに耐えることであり、それはまた、孤独であることを自覚することである。それから逃れるために、無為なことを繰り返し、消耗して死ぬ。

 「まず臨終の事を習いて、後に侘事を成すべき」とは日蓮が喝破した。

 孤独とは、死の哲学である。死の思想である。

 独りであることの対座は、死との対座によって完成される。

 孤独を知らず、単に孤立してネット地獄に陥っている多くの若者は、死ぬということさえ知らない。死ぬことを知らないということは、病である。

 精神疾患が病というが、それは単に社会と適応出来ないということであろう。

 病とは、そんなことではない。

 吾が孤独に病んでいると感じた時、そこに精神の世界が開ける。つまり哲学と思想の道である。脳内物質の不足によって起こる不安や動揺ではない。存在の根源としての孤独感である。これは、よりよく生きたい思う人にとっては、願ったり叶ったりである。

 社会と折り合いをつけて、なお、孤独を抱き生きること、それが最も大事なことである。 孤独の別名は、自己対話である。

 自我と自己の対座こそ、生きるということである。

 自我と自己が対座する時、我という意識が明確になる。

 人生は我の自覚以外の何物でもない。

 自我と自己の対座に耐えられない者は、神や仏との対座でも善し。大いなる存在の神や仏という、すべてを生かしめている、秩序と法則に対座することである。宗教は、そのためにある。そして最後に、自己に行き着けば良い。

 宗教の別名は、解放である。解放のない宗教は、偽物である。

 この次元には、絶対というものはない。あるとするならば、それは妄想である。我の存在さえも絶対ではない。簡単に言う。宇宙に時間は無い。あると信じているだけである。時間が流れていると信じている。流れているのは、我の意識である。

 宇宙は、時間という次元も無い。時間を超越しているというより、無いのである。無いものをあると思い込むのは、妄想である。このことを解れば、自ずと解る。

 永遠とは、今である。今、孤独と対座しないで、いつ対座するのか。そして、今を生きないで、いつ生きるのか。

 親鸞が歌う。「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」

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