みたび日々徒然 108

木村天山   

 

 教育の退廃を言う人を、私は笑う。それを言うなら、教育者の退廃であろう。また、それに関わる機関の退廃であろう。

 何せ、お勉強が出来た元文部省、現文部科学省の役人と、そして国を愛せない教育を平気でするというアホな日教組、そして、教育者、先生とか教授と言われる皆々様である。 だが、彼らには、反省も、勿論、内省もない。

 こうして教育は退廃し、今に至る。30年ほど前から、心の教育とか何とか言うが、誰も明確に心の教育について知る者は、いなかった。

 心とは、息のことである。日本の伝統は、息遣いを心の有り様として、呼吸を大切に教えていた。息を整えることが、心を整えることであることを、教えた。それを、誰も言わないし、知らないのである。心と精神を一緒くたにして言う人もあり、私は、ただ笑った。 日本の最高学府である大学の教授等々などは、九割がアホである。が、本人は知らないし、気づきもしない。何事か研究をしていると思い込んで、望外な研究費等々を頂いて、研究と称して、研究ごときことをしている程度である。

 大学に入学して、人間性が高くなったというような話は聞かないし、ほとんどが、苦労しないでお金を得るという仕事を求めて、国のことや社会のことなど考えないアホばかりを世の中に送り出している。それにも気づかない大学関係者等であるから、終わっている。 教授、学生共に、九割がアホだから、後は知れている。

 勿論、これから大学はどんどんと潰れる。潰れるということを知らないアホがまた多いから、悲しい。お勉強を本当にしたい人は、塾に行く時代である。

 一時、ゆとり教育なることを言うアホな大臣がいたし、また役人がいたが、その役人の子供はというと、ゆとり教育などさせない。楽してお金を得るために、お勉強をさせて、官僚等々、特権階級に入るべく、徹底教育をするという真実。

 そのうちに、ゆとり教育は駄目だという話になって、また、何やら言う。要するに、何も解っていないのである。気分で、教育を考えている。

 思想のない日本の教育界は、教育など出来ない。

 思想は伝統から成るものである。それでは、日本の伝統とは何か。日本の伝統は、天地自然に神が宿るという思想である。動植物のみならず、鉱物等々、自然界に神が宿る、働くという思想である。それを神道と言う。しかし、神道は宗教と認識されているから、私は古神道と言う。それは伝統である。

 イスラムの教育は、赤子のうちからコーランに密を塗り、コーランに対する意識を徹底させる。良い悪いは別にして、教育とは、そういうものである。

 子供に自由を与えることが、教育の最高の形であると思う人がいるならば、それは、アホ馬鹿間抜けである。日本の伝統は型を教えて、形に至る教育をする。初めに、型がある。そして、自分の形を創るのである。

 ところが、教育者が型を知らないから、教育にならない。教えるということは習うということの深さである。それも知らない。自分のアホさ加減を知らないで、教えていると信じ込んでいる先生、教授等々は、哀れである。

 生活の糧を得るための教育者であるから、志しも何もない。哀れである。

 真実は単純明確なものである。それを、教育者は、複雑怪奇にして、悦に入るという図は、哀れを通り越し、喜劇である。死ぬ覚悟のない教育は、やらないことである。

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