みたび日々徒然 14

木村天山 著  

 ヨン様ブームという。韓国の役者である。私は彼を知らない。ただ、新聞に載る広告を見て知るのである。それが尋常ではないことが解る。

 人の趣味であり、フアンのすることであるから、何をか言わんやであることは十分承知の上で言う。哀れである。

 その大半のフアンは中年の女性であるという。矢張り、新聞に成田空港に3500人が出迎えたとある。韓国に対する心情としては、良いことであろう。

 その役者は、冬のソナタの中で演じた役者であり、彼自身ではない。彼は演じただけであろう。その物語りに感動するというのは理解するが、それがそれを演じた役者にとなると、首を傾げる。

 人生の初年期には、そういうフアン心理というものがある。相手に思いを託すのである。しかし、今回の場合は、どういうことなのであろうか。

 中年の女性は、何を血迷ってしまったのだろうか。

 私が哀れに思うのは、それ程のエネルギーがあるというならば、もっと有益に行かせないものだろうかということである。

 いやこのことに関しては、唇寂しくなるから、もう止める。

 現実を直視出来ない人々の群れを感じる。人生が、足場の無い、ふわふわした、そして、どうでもいい場所にある。それは思考停止した人々であり、単に夢見る人々である。現実は、あまりにも厳しく、悲しいものであるから、それを知ることも、観ることもしない。要するに、人生を放棄してしまった人々である。

 架空のお話に浸って酔うという、哀れさ。根のない感動に心を震えさせる人。本の広告に、突然「泣かせます」だの「感動の〜」という言葉を見ると、私はぞっとする。例えば、人の不幸を悲しむということも、それ作り事の世界のみでなされる。日々の生活の中で、感動を見いだせない、いや見ない人々が、手軽な感動に感動するという、信じられない感性である。

 私のように朝の太陽に、深い感動を覚える者にとっては、理解しがたいのである。日々の当たり前の事に驚く私には、それが理解できないのである。つまり、人生の生きている現場にのみあるはずの感動という感性が欠落している様は、哀れというよりない。

 だから、不幸にある人の人生を傲慢にも哀れんで、それを受け入れる。本当は自分が一番不幸であることを知らない。

 身体障害者が、何か事をすれば、それだけで哀れみ受け入れ、さもその悲しみを理解しているかの如くに、行為する。それが差別の最たるものであることを知らない。自分より不幸である者の行為は受け入れるが、自分と同じだと思う人の晴れがましさは、受け入れない。下手な芸でも、身体障害者がやると、良しとする愚かさ。それも差別であると気づかない。

 自分の狂いに気づかない、自覚のない人、つまり病者の自覚のないは、狂っているのである。戦後60年を平和に過ごしてきた日本人の大半が狂いにあるということを、私は知る。そして、すでにこの国が滅んでいるという現実を観る。自分の国が滅んでいることさえ気づかないという、愚かさは救われない。日本の国体は無いのである。国を支える精神が皆無であるということ。日本はアメリカの一つの州なのであろか。世界の一つの機関なのであろうか。国民から浮遊した政治家と官僚、公務員が国を売り続けて、一体、どこまで国を分断し、粉々にしようとするのか。日本は蜃気楼の上にあって、すでに国というものがない証拠が、今、次々と現れる気づいた時は、すでに遅いのである。

 日本という国があると思わせて、家畜のように扱われている様は、哀れを通り越して、悲惨である。聞く者は聞くがいい。世界最高の歴史を有する国、豊葦原の瑞穂の国は、魔界に取り込まれたのである。いや、取り込まれつつあるのである。目覚める者は、目覚めるがいい。

TOP PAGE   各種エッセイ目次  みたび日々徒然 目次