みたび日々徒然 15

木村天山 著  

 死にたいと思うことは、真っ当な神経であろうが、自殺をするというのは、病気である。病気には治療が必要である。

 だが、このところ、一人で死ぬのではなく、集団で死ぬという、集団自殺が多くなっている。

 この世は、生きるに値しないのか。生きていても、どうしょうもない程の虚無感を抱いているのか。だが、実際この世は、そんなところである。それを解って生まれてきたはずなのであるが、その記憶を失った、勿論、生まれた時に潜在意識にしまってしまったのであるが。

 実は生きるというのは、永遠の謎である。誰も、その答えを見いだせないできた。その答えを求めて、探して生きるといってもよい。勿論、答えは我が内にある。

 世界は、無常であり、また無情である。それを火に譬えれば、業火であり、水に譬えれば洪水である。そんな上に人生はある。気づく者は気づくがいい。

 生きると言うことの根底が、いつもその上にあり、それに気づいた人は、その救いに心血を注いで、何故生きるのかを模索した。

 その問題を解くのに必要なものは、霊学であるが、それは学問に至ることなく、ほんの僅かな人のみ、目覚めて学んでいるのである。霊学によってでなければ、解決できない問題である。宗教が、それを扱っていた時期があるが、今の宗教は、全く、その可能性もない。狭義の教義に堕落して、久しい。

 宗教が霊学を扱っていないということは、それらは一つの哲学や思想に堕落したものであるということだ。

 哲学や思想は人を狂気に駆り立てたが、救うことはなかった。言葉の闇に分け入っていることを、演じ続けているのが、それらである。救いがある訳がない。

 死にたいと思うことは、通常の神経である。生きるということは、そこから始まる。つまり、死を意識することから、生きるということが始まるのであり、死にたいと思うことは、そのきっかけになる。ところが、先に死を選んでしまう。始まりを放棄するのである。 そして集団で死ぬという意味である。集団自決となる。

 漠然と死にたいと思う人が集って死に至るということは、単に偶然ではない。

 霊は気を発する。その気に感応して人が集う。つまり死にたいと思う人の霊は、病んでいるのである。その病んだ気が感応して人が集う。集団自決になる。

 心が病んでいるという問題ではなく、霊が病んでいるというのが問題である。現在の世は霊が病む程の時代であるということ。

 人が肉体と霊体を持つと知らない人には、解決できない問題である。

 この文明の発展は、本当であるかという問題に行き着くのである。霊体を無視した文明の発展は、自分の首を締めることになったと言える。この文明を指揮した者は誰か。その本体を観ることである。この文明は物質文明であり、決して精神文明ではない。それは益々拍車を掛けている。物質文明の先にあるものを、誰が知るか。事は、重大な場面にきた。 今、多くを語ることはしないが、霊が病むという重大事に至っても、それを知らない者共に、私は絶望する。この日々徒然で、本質を薄く延ばして語る。

 真実は単純明解である。実は、生きるということも単純明解なことである。それを、言葉遊びに堕落せしめた者共に、私は徹底した戦いを挑むつもりである。

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