みたび日々徒然 17

木村天山 著  

 何故生きるのかと問われたら、即座に言う。生きるためである。

 生まれたということは、生きるために生まれたということである。

 霊学から言う。意志の欲しないところに事は起こらない。物事は偶然ということは有り得ない。何故なら、因果の法則だからだ。因があって果があるとは、宇宙の真理である。そして、因果応報を生きるのである。

 このところを選んできたという意識を忘れるのは、忘れなければならない程の決意があったのである。それ程、この世は大変な場所であるということだ。その意識に気づかずに死ぬ人もいる程、意識が混濁するのである。

 無為に生きるより、死んだ方がましだと、若いころは考えたか、とんでもない間違いだった。つまり、無為に生きるということは、至難の業なのである。ただ、生きるがために生きるということが、どれほど大変なことか。

 この世にある、哲学、思想、宗教、もう一つ文学等々、生きるために、必死で意味を模索する。それでも満足出来ずに死ぬ者もいる。

 この世は、天国と地獄が同時に活動する場所である。何から何まである。それを知っての転生である。勿論、死ねば終わりだと言う人には、反論しない。そんな暇は無い。

 聞く者は、聞くがいい。

 死後の世界云々と議論している暇はない。無常は迅速であるから、即座に行動を起こすことである。その行動は、やりたいことをやるということに、尽きる。

 やりたいことは、我が内から湧いてくる思いであるから、私が求めていることである。もし、やりたいことに飽きたら、それはやりたいことではなかったという単純な理由である。そうであれば、また即座に、やりたいことをやればいい。

 ところが、やりたいことが見つからないという不幸な人がいる。それが不幸であるということにも気づかない。

 また、家代々続いた家業を継ぐという、一見不幸に見える人生もあるが、それも実は、選んできたということである。

 生まれるということは、生まれたかったということである。これを知ることを、悟りという。または自覚という。

 悟りも自覚も仏教用語とされるが、仏教では、初期仏教以来、誰も悟りを教えられなかった。ブッダの死後、教団は外道に堕落した。今は観る影もない。今の仏教は、ブッダの仏教ではないことは、明らかである。狭義の教義に堕落した偽の仏教であるか、もしくは、全然別物である。日本の仏教とは、笑わせる。

 さて、私は言う。生きるために生まれ、生きるために生まれたのである。それ以外の意味はない。それが、私の霊学の冥利である。

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