みたび日々徒然 18

木村天山 著  

 僭越ながら、国歌「君が代」について言う。

 未だに「君が代」を正しく教える人がいないという悲劇である。

 「君が代」の君は天皇であるとする考え方がある。それはそれで正しい。それも正しいと言う。天皇の御代が永遠に栄えるようにという意味でよい。

 ただし、ここで言う天皇は、他国の王様とは違う。「君が代」の天皇は、天皇だけが永遠に栄えるという意味ではない。天皇は国体であり、国体は国民であり、天皇と国民は、共にあるという意味である。つまり、天皇の御代というのは、国民の御代でもあるということ。それが日本の伝統である。一時、軍部が教えた「君が代」を後生大事に守って、今でも、天皇を称え、天皇のためだけの世の中であると信じているアホどもは、話しにならない。強迫観念であろう。

 天皇は国民があって成り立ち、その国民の総意が、天皇という存在に至る。キングではない、エンペラーである。要するに、地主ではないということだ。精神的支柱、国民の祈りの存在なのである。もう少し言う。日本人は、現人神である。そして天皇は、現人神の代表であり、現人御神(アラヒトミカミ)なのである。この考え方は伝統である。

 天皇と国民が分離しているということではない。ちなみに、ヨーロッパの王室と比べると、そこには雲泥の差がある。彼らは、国民とは関係ない存在である。だから、平気で、他国の者が王位に就く。支配者の論理である。天皇の存在と全く違う。あの、近代を開いた織田信長でさえ、傲慢不遜に天皇家と渡り合ったが、天皇家を比叡山のように焼き払うことがなかった。それは、天皇の存在が、国民の祈りの存在であり、平和的な存在であることを、直感していたからである。

 さて、もう一つ言う。「君が代」の君とは、愛する相手であるという意味である。愛する者に対する日本人の心情は、相手を上位におく。君子とは、仕えるべき相手である。

 君とは、君主であるという時代が長く続いた。愛する者は、その君と同じく上位の存在なのである。これも、伝統的考え方である。

 つまり、君とは愛する相手ということになる。君と言うからには、君と呼ぶ私がいる。君と私の御代が、永遠に栄えるようにという意味である。つまり「君が代」は恋歌なのである。古代の歌の約八割は、恋歌である。世界で最初の小説「源氏物語」も恋と性愛のお話しであり、そこに「もののあわれ」を観たものである。

 日本人の心情に恋は欠かせないものなのである。恋を通して人生を観たということである。これほど趣のある人生観はない。無味乾燥の欧米の思想、哲学等々とは、全く違う。 日本人の人生観は、人による人のための人の人生観なのである。

 ルネッサンスという革命まで、長い間、教会の狭義な教義に抑圧されていた民族とは違うのである。

 古代から、大和民族は、人による人のための人の人生を見詰めてきた。

 愛する相手との永遠の愛を願う歌、それこそ「君が代」なのである。結婚式にこそ相応しい歌である。

 君とは、君と呼ぶ相手がいる。君とは独りではない。君と呼ぶ関係、つまり汝と我がある。そこに「君が代」の奥深さがある。お前百まで、わしゃ九十九までという、微笑ましい情愛の歌、それが「君が代」である。

 そろそろアホの目を覚ませアホどもと言う。 

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