みたび日々徒然 25

木村天山    

 

 生きる力を、私は人生力と呼ぶ。それは、内的必然性を知るということでもある。事は偶然のようにして起こるが、それを内的必然と感じ取る力が、人生力である。

 内的必然、つまりそれは、因果応報であり、自業自得のなせるものなのであるから。

 要するに偶然は無いと言える。起こる果には必ず、その種である因がある。そして果はまた因を作る。その繰り返しが人生である。とは、仏陀が観たことである。

 仏陀の教えは、そこからの飛躍である。

 私は、そこに生きることを言う。何故なら、悟りという特別な行為を普段の生活で得ることは難しい、困難であると考えるからだ。また、悟る必要はない。悟るというのも縁であるから、その時期が来なければ悟られない。

 それから宗教家の元に出掛けても、悟りは得られないであろう。こられては、長くなるので、語らない

 私が言う、人生力、内的必然性を感じ取ることは、いつでも出来る。

 事は、簡単である。起こる事象を、いつもどんな意味があるのかと問えばよい。それが人によってもたらされたものでもである。自分に取って、どんな意味があるのかを、いつも探る癖をつけるのである。それを内省とも言う。

 事象がすべて、外からのものであると考えるのは、あまりに哀れである。内省して、始めて生きるという実感が湧くのである。

 人生におけるすべてのことは、自己責任である。

 不可抗力と思えることも、内的必然と考えると、人生は、極めて深くなる。人生が深くなるということは。生きる意味意識が明確になるということである。

 不幸であることを嘆く人がいるが、意味もなく幸運に嘆く人はいない。意味もなく幸運に恵まれる人がマスコミには登場するが、彼らは、その意味を知らない。その幸運が水の上を歩くようなものであことを知らない。

 また、内省すると、何が幸運か不幸かも、違ってくる。

 浅い川を深く渡るという、ことわざがあるが、内省は、それに似ている。

 他から、意味も無く与えられることを幸運と思う人は、不幸であると、私は思う。それは私が内省をする者であるからだ。その幸運が、いつ不幸に変化するのかを知らない。

 どんなことも注意深く観る内省によって、人生が観えるようになると、それは実感とした人生感覚となる。それが人生力となる。

 生きるということの意味意識は、百人百様であるから、これ以上は言うのを控えるが、生きる意味意識の希薄になった時代は、それを取り戻すことが急務である。

 この世に誕生してきたことも意味がある。それは内的必然によったものである。生まれるという奇跡を起こしたのであるから、生まれるということは、大変なことであることを知る。 

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