みたび日々徒然 31

木村天山    

 

 人間は、完全に自由な者である。

 自由とは何か。それは柔軟な思考と、寛容の精神である。

 その上で何を選ぶかということが、生きるということである。

 今では、国籍さえも選ぶことが出来る。ちなみに江戸時代などは、職業でさえ選ぶことが出来なかった。親の職を継いで当然だった。

 時代が進化したお陰で、自由に生きることが容易になった。

 ところがである。どうも、世の中は私が考える自由とは、違う自由を享受しているような気がする。

 何を選ぶのかということが生きることだと言った。また、自由は柔軟な思考と、寛容の精神であると言った。ところが、選ぶことによって、不自由になっていると共に、思考が硬直して、非寛容になっている。どういうことであろう。

 主義や主張等々、どうも、何かを選ぶと、思考は硬直して、非寛容に陥るのである。

 自由であるはずの思考が、それにより不自由に陥るとは、いかなることであろうか。

 何かの主義を掲げると、それ以外の主義や主張を徹底的に拒む。宗派や集団に入ると、思考は硬直する。何故か。

 それは完全なる自由を恐れているのである。ということは、自立した精神を持つということは、至難の業であるということである。自立は自由の根本である。

 何かに属するということで、安心感を得るという不思議である。人は、何にも属すことはないのであるが、何かに属することで安心を得たと信じるという、不思議である。

 折角、与えられてある自由を、何かによって束縛されることを善しとする。ここに、重大な人間の問題がある。

 また人間は相対の世界を超えたところの自由もあるのだが、それも、よく解らないようである。自分で決めているようで、実は、自分では決めていないという、恐ろしい実体が見える。

 もっと自由を享受するために、選んだもので束縛されて思考停止になり、非寛容になって、それで生きていると勘違いする。

 何一つ取っても、この世に限定するものはない。絶対という世界はない。

 時に応じ、時に感じて行為するものが、一心に一筋の道を行くという勘違いから、とんでもない独断と偏見、そして思考停止に陥る。

 この世は、360度の思考がある。それは無限な思考である。

 それを放棄して、1度の方向からしか物を見ないのであれば、あまりにも哀れである。 しかし、もっと哀れなのは、決めたはずの主義や主張でさえ、金を積まれれば、変更するという堕落である。そういう者が、世の中で発言しているのを聞くと、私は、あまりの哀れさに、呆然とする。いくら厚化粧をしても、そういう者の人相は歪んでいるから不思議だ。顔は隠せないのである。

 高邁な哲学や思想も、金で動かされるとなると、悲劇である。そうしてすべてを売り渡して生きている者が、世の中では指導的立場にあるとしたら、これはもう救いようがない。 

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