みたび日々徒然 32

木村天山    

 

 クラシックに関わるアホの話はしたくないが、触れずに書くことが出来ないので書く。

 2001年2月に藤岡宣男が最初のリサイタルを鎌倉で開催し、その後、私がプロデュースをすることにした。することにした理由は、その世界が常識外れも甚だしく、藤岡の才能を、そんなアホな世界に晒すことに憤慨したからだ。

 まあ、それから、私のやり方できた。

 最初に仰天したのは、チラシのプロフィールである。まず、虫メガネで見なければ読めないようなプロフィールが載せてある。素人の私には、それが本当に必要なものかと、戸惑った。私の知り合いを誘うにしても、プロフィールを見て聴きに来る者はいないと思った。それに、本当かウソか解らない、書いている本人しか解らないものであるから。

 師事した先生の名前、コンクール入賞歴等々。学校の遍歴と、留学等々。一体、演奏とどんな関係があるのか、素人の私は、驚いた。それを見て、聴くという人がいるからなのであろうが、そうだとしたら、演奏を聴くのではなく、プロフィールを聴くのであろうと想像した。だが、私がチラシにプロフィールを入れないようになって、暫くすると、そういうチラシが目につき始めたから、面白い。そして写真である。クラシックのチラシの写真には、美的意識が感じられなかった。それが、今では、デザインとしても良質なチラシが目に付く。

 素人の私は、コンサートとはサービスの何物でもないという風に、考える。いかにお客様に満足してもらうか、そして楽しんでもらうかである。勿論、演奏の質は言うまでもないが、それだけではサービスにならない。舞台で、どんなサービスが必要かと考えた。

 初めは、曲のお話しをしつつ、そのうちに、出演者の四方山話をと続けた。そうすると、そういうコンサートが多くなったと言う。

 別に私は、先導しているとか、時代に先駆けて手本を示すという意識はない。ただ、素人ならばという意識で、やってきた。それが、徐々に伝播しているのか、時代がそうなっているのか・・・いずれにせよ、私の理想に近くなっているのである。

 クラシックもアホばかりではなかったのである。

 ただ、演奏以外は、何も知らない常識はずれが大勢いるクラシック界というのは、変わらない。社会人としの礼儀作法に欠ける、欠陥人間が多い世界でもあるから、アホばかりといってきた。それは中々、一朝に変わる訳ではない。

 親子でアホの者も多く、通常の常識では理解出来ない者が多い。勿論、アホは自分をアホだと気づかないから、アホなのであるが・・・

 金を出して舞台を買うということは悪いことではないが、プライドが高すぎて、舞台を金で買うということを続けてゆけば、いつか破綻するであろうと思う。破綻して精神に異常をきたした者も多いのであろうと、想像する。

 さて、これから、次ぎの段階である。コンサートは聴かせるものから、見せるコンサートになってゆくだろう。聴かせることは、実は、見せることなのであることに気づかないアホが多いのも、クラシック界の特徴である。

 お辞儀をして演奏して拍手を貰い、お辞儀をして去るとは、猿でも出来る。演奏家は、役者であるから、舞台で演じることなのである。

 今朝、みそ汁と、納豆を食べても、バター臭いオペラのアリアなどを歌うのであるから、みそ汁、納豆臭さを取るべく、演じるのである。私は占い師だから、人相を見る。歌うアリアが、顔を見るとみそ汁だとしたら、どうだろう。あまりのギャップに仰天する。本人はそれを知ってか知らずか、意気揚々である。哀れである。

 舞台の所作にもっと気を使うようになる。演奏だけで、唸らせる演奏家が理想だが、そんな者は世界を探しても一人、二人の世界であろう。お涙頂戴で有名な演奏家なども、聴いてみると何のことはない下手くそ。私は素人だが、感動することもない。あれは、マスコミのアホに躍らされてテレビ等に登場させて、素人を撹乱させているだけである。

 私のように、ごまかされない素人もいるのである。

 子供のピアノの音に感動する私は、音楽の音痴だとは思わない。出されている音を聴くと思っていると、それは大間違いである。私は、聞こえない音を聴く。つまり、演奏している人が、理想とする音を聴くのである。それは演奏者の波動と言ってもよい。歌もそうである。ちなみに、オーケストラは、あまり気がすすまない。大音量に音の真実があると思えないからだ。勿論、これから私も、素人から脱するためにオーケストラも聴く。ただし、プロや、その筋のアマのフアンの声は無視する。解説も聞かない。何せ、評論家、音楽学者の評論文を読んで、感心したことはない。あれは日本語を知らないか、音楽そのものを知らない。素人の私に見抜かれる程度の日本語の錯乱なのであるから、読むに耐えない。

 ちなみに、私は30年以上小説を書いている。アマでも30年以上小説を書いているということは、日本語に対して、愛情と理解があるのである。お勉強のし過ぎで、日本語まで錯乱してしまったお勉強家を哀れに思う。それが学者と言われるとは、学問の世界も、アホが多いということであるが、あまりに哀れなので言わないことにする。

TOP PAGE   各種エッセイ目次  みたび日々徒然 目次