みたび日々徒然 33
木村天山
クリスマスはまつわる四方山話を書く。
お寺でも、クリスマスをお祝いするという日本は、平和である。よくぞやってくれた。世界がお祝いするクリスマスである。キリストがいつ誕生したのかなど、関係ない。世界がお祝いするということに意味がある。
これはキリスト教徒だけのものでなくなった。それも素晴らしい。
12月は、日本中がクリスチャンになるという御目出度さであり、私は、それを善しと思う。四月の仏陀の誕生の花祭りも、もっと最大にやりたいものである。何でもいい。いつもお祭りをしていることが、平和なのである。戦争をするより、何千倍も良い。
そして、クリスマスが、恋人たちの記念の日になることも善し。男が女のために、お金を使い、精力を使い果たすという、本当に御目出度い。ホテル、ラブホテル等は、満室になると言う。平和である。
十字架で死んだキリストも、苦笑いのお祭りというのがいい。
神は愛であるから、互いに愛し合いなさいという教えを宣教したキリストの教えを、クリスマスには、百人百様の形で行っているという図は、楽しい。
イエスキリストは、四月生まれである。だが、四月は、キリスト教の大変重要な復活祭があり、教会は誕生を十二月に制定した。それも善し。クリスマスは、キリスト、ミサという意味であり、実は、誕生ではなく、キリストのミサであるという重要な意味がある。 ミサとは、最後の晩餐の写しを記念の行為として行う儀式である。ワインを我が血である、パンを我が体であると言ったキリストの言葉を記念し、儀式を行う。キリストの教えの凝縮したものである。
最後の晩餐には、重要な世界的意味がある。欧米の思想は、これを抜きに語れない。
晩餐という食事が、いかに大切な行為であるかということ。共に食するということは、共に食べ合うという意味である。つまり、相手を食べるのである。ワインを血である、パンを体であると言うのは、写しである。実は、相手を食べているのである。相手と一体になることが、キリストの最大のメッセージだった。
命を捨てる以上の愛は無いと断言したキリストは、最も大切なものを相手に捧げることが愛の行為だと言う。人は食べることによって、生きる。命は、食べ物である。食べ物が単なる食べ物でなくなるという、食べ物が変容する様を、キリストが実行した。
私を飲む者は、渇くことがないと言うキリストの言葉が象徴する。
キリストは、ユダヤの神を超えた。だが、それが十字架に死ぬ原因になった。裁きと怒りの神であるユダヤの神と対立したことが、大きな原因だった。それを知る人は少ない。 神は愛であるとは、神の思想からも仰天の思想であった。
ユダヤの神は愛の神ではない。
イエスは、ユダヤの神との約束を破ったのである。
お勉強する神学では、理解することが出来ない。
民族神との対立、それはキリストの教えが、民族を超えたところに置いたからといえる。 誰でも、キリストの教えを実行する者は、神の恵みを受けるという仰天の教えである。あちらの国は、そういう考え方は無い。他民族に対する排他的、支配的な民族の固まりであるから、キリストの教えは、民族神の教えに反することになる。殺される訳である。
神が人になったとは、キリスト教神学の要であるが、実は、人は皆、神が人になった存在である。日本神道神学の言葉で言えば、現人神ということである。人は皆、現人神である。神道が宗教を超えているのは、最初から人を神と観るからである。
キリストは、それを教えた。だが、差別と支配を主の宗教には、大変な危険な思想である。もし、日本でキリストが宣教したならば、殺されることはなかったのである。あの地方だったからだ。
旧約聖書の神を超えたキリストは、その神によって殺されたのである。
神道神学で解釈すれば、一目瞭然であるが、神道神学など、一部の人しか知らないから、誰も言わずにきたので、私が言う。
ちなみに、仏陀の慈悲の思想に近い愛という思想である。ユダヤの神を神と戴くイスラムが、仏教を根こそぎ破壊し、慈悲の思想を排斥した事実は、歴史を見れば解る。
慈悲や愛を嫌うのである、彼の地の神は。
それはかの地の神の正体を観れば解るが、ここでは言わない。
クリスマスの四方山話だから、この辺で、やめておく。