みたび日々徒然 36
木村天山
一つのことを熱心に、そして深くマスターするというのは、理想的である。
芸術、芸能の人に、そういうタイプが多い。職人と言われる人にも多い。
ところが、一つに熱心にチャレンジして、人格崩壊、人格破壊の者も多い。そこまでにならなくても、社会的常識や、対人関係常識に欠ける者が多い。
芸術も芸能も、何らかの職人も、実は、それが目的ではなく、それを通して在るものを見つめるために行っているのだということを教えられていないゆえの、大きな勘違いが支配している。
人間としての成長を最大の目的として、この世のものがある。それを知らない。
天才という程の才能があるならば、在る程度の逸脱は許されるが、その大半は、天才というほどのものではない。
大切なことは、人間修行なのであり、そのための手段としてのものであることを知らなければ、精神的、心的、魂としての成長はない。
芸を教わっても、それらを教わることがないからであろう、精神的障害を平気で晒すという愚行をするアホどもが多い。
ここ五年程、クラシックの世界と関わったが、そのアホどもの所作には、仰天する。素人の私が聴いても下手くそな演奏をしているが、自分の下手に気づかないという恐ろしさである。基本的に頭が悪いと、自分の下手な演奏にも気づくことがないということも解った。音楽なるものを、実はだれも定義出来ないのであるが、勝手に定義して、悦に入っているという図である。音楽学者も、音楽がいかなるものであるのかを、知らない。そして、知らないということを知らないという哀れさである。
私は、一音にすべての音が包括されていることを、霊学から知っている。
実は、絶対音感という言葉で表現されるものは、病であることを知らない。音に絶対は無い。あらゆる音を音階で計るという病に陥っていると、すぐに解ることだが、音楽家ら、アホどもは解らないようである。
極めて遺憾な病である。人工の音階を強制されるのだから、脅迫神経症など、ぶっ飛ぶ病である。
まあ、ほとんどの演奏家は、死ぬまでの暇つぶしに、何をかやっているのだから、それはそれでいいが、もう少し人間として真っ当になって欲しいと願うものである。
たかがピアノ如きで、何を尊大にするのか理解できない。騒音を発していることを知らない哀れさである。まさか、自分の演奏が騒音であとは知らないであろうが、騒音なのである。ましてや、それをホールという狭い部屋で聴かせられるのである。
ピアノの演奏が、小川のせせらぎに敵わないということを知らない。
人工のものは、限界があるのである。いったい、音の何を理想しているのであろうか。
ここで全く別な話をする。
ラーメン屋の話である。拘って、拘り抜いてラーメンを作るという職人を、見事だと思うが、その職人の多くは、病人である。ラーメン如きに拘れるということもそうだが、矢張り、神経症的性格なのであろう、微妙に拘る。しまいに、この味が解らない者は、食うなとなったら、万事休すである。
何を勘違いしてか、客を見下して、自分の拘りを押し付けていたラーメン屋のおやじを知っているが、死ぬまで、いや死んでも治らない傲慢不遜であった。
私がいいたいことは、すべて手段として成すものであるから、それを手段として理解することである。一つを徹底して追求する、その裏には、即座にそれを捨てられる精神の自由があるということである。それを失えば私でなくなるというものは、この世に一つとして無いのである。ということは、私というものを知らずに、何かを成しているということである。私は言う。私は私になりたいが為に、この世のものを利用して、私に逢うべく、それを通して成しているのである。