みたび日々徒然 39

木村天山    

 

 

 ある縁があり、女子中学生六名とパーティーに似た食事をした。

 皆、くったくのない良い子だった。だが、私はある奇妙な感覚にとらえられた。というのは、女の子であるのに、女の子と一緒にいるという感覚ではなく、男の子と一緒にいる感覚なのだ。その理由は、言葉遣いだった。昔、ボーイスカウトにいた頃を思い出した。

 いちいち上げないが、私の少年時代の男の子の言葉遣いいで話しているということである。驚いた。「食う」とか「食え」とは普通である。後は、推して知るべしである。

 さて、これを私は、どう受け入れるかということ。彼女たちと付き合うとすると、それを受け入れるということであり、果たして私は我慢が出来るかということだ。

 そしてもう一つは、彼女たちを招待した子と、彼女たちが随分と親しい関係だと思ったが、それほどでもないこと。誰々の家でパーティーをしようという話しになって実行されただけであると言う。

 実は、クリスマスパーティーである。また、明日から冬休みという日である。

 彼女たちは、手ぶらで来て、たらふく食べていた。一体、全体、どういうことであろうかと思った。六時頃から来て、十時半頃に帰ったが、一人の子の母が迎えに来たと言うが、その家の者に挨拶することもなく、娘を連れて帰ったのだ。

 私には、信じられないことである。娘を迎えに来たということは、家の前まで来たということで、玄関で挨拶くらい出来ることであろう。携帯電話があるから、そういうことが可能になった。

 私の年代が最もアホが多いと思っていたが、本当だった。この子の親たちは、私と同年代の親である。子供を管理するが、躾けることが出来ない世代である。

 躾けとは伝承である。伝承を失った者は、哀れである。

 最も性を意識する世代である。それが、男の子の言葉遣いをしているという図は、性の曖昧化、ファジー、その境界線が失われたのであろうか。男女平等という耳触りの良い言葉の成れの果てなのだろうか。それでも、私は彼女たちを可愛いと思った、自分の子供の年であるから。

 そういえば、ある出来事を思い出した。向こう側に行くためのエレベーターを利用しているが、ある時、若い夫婦と子供が一人乗り合わせて来た。彼らがエレベーターに乗ろうとすると、扉が閉まりかけた。するとその若い母親が「危ねえだろうが」と、誰睨むともなく言ったことである。その言い方には、女性というより、やくざのチンピラの風を思った。子供に語り書ける時は、そんな言い方はしないだろうが、外に出て言えば、子供は聞いている。影響しないはずはない。

 別にそれで社会が云々ということは言わないが、ただ驚いている。

 ばか丁寧な言葉を使うアホもいるから、よく解らない。

 ただ言えることは、どうかしたということである。大昔、言葉遣いを聞けば、その身分が解ったという時代があったが、今は、もちろん身分などない時代であるから、誰が、どんな言葉遣いをしてもいい。汚くても、尊大でも、丁寧でも、アホ言葉でも、何でもいい。 地方に行けば、女性でも「おめ食うか、おら、食うど」と言ったりする。そう思えばいいのだと思って、複雑な心境を収めることにした。

 女の子なんだからという理由は通用しない時代が、良いのか悪いのか。

 男のゲイが多くなったはずである。

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