みたび日々徒然 41

木村天山    

 

 

 昔、若者は、周囲に影響を受けて、右往左往して自分を見つけた。人に影響されることは悪いことではない。誰でも、手本というものを見て、その真似をするのである。その内に、自分というものに気づいてくる。自分の分というものである。人は、どう足掻いても、自分以外の者になり得ない。

 だが、それを実行するには、それらのものに逢うことが必要である。逢わなければ、何も始まらない。

 右翼に逢えば右翼になり、左翼に逢えば左翼になり、共産主義に逢えば共産主義になり、民主主義に逢えば民主主義になる。そうして、どこも自分の場ではないと感じて、我が道を行くのである。気づいた時は、孤立無援のただ中にいるということもある。そして、それでいい。それが真っ当である。

 やりたいことは、何でも手をつけてみる。三日坊主で終わることが多い。その内に、やめられないものに気づく。やってもやっても興味が尽きず、飽きずに続けられるものが出来る。それを見いだすのに、十年も二十年もかかることもある。だが、それは真っ当である。そうして、その内に死ぬ。それでいい。

 人生は、そんな程度のものである。

 生まれたということは、自分を探すために生まれたのである。そして、本当の自分に逢うために生きる。

 人生は絶対主観なのである。だが、その前に、客観という視線を通る。自分を客観視した後で、絶対主観に立ち戻る。

 絶対主観は我の「いのち」を徹底して感じる取ることである。

 我が内の「いのち」を問う行為こそが、生きるということになる。

 「いのち」あるすべてのものにつながる「いのち」との出会いである。我も、その「いのち」なのである。

 七転八倒して、人に出会い、付き合いをして、我に気づく。男を演じ、女を演じ、親を演じ、子を演じ、様々なところで、様々に演じて生きる。しかし、その大元は「いのち」なのである。その「いのち」との共感である。人の「いのち」との共感から、絶対主観の「いのち」に気づく。

 自分が自分でなければ、人を愛することも、人を幸せにすることもない。自分が自分でなければ、皆ウソの上塗りになる。

 我のうちにある「いのち」に触れなければ、何も始まらない。

 「いのち」の捕らえ方は、百人百様である。それでいい。

 この「いのち」の表現が、生きること、生き方である。「いのち」は目に見えないものであるから、目に見えるように表現する。それが生き方である。すべて「いのち」を表現して生きる。

 すべての「いのち」と共感する「いのち」を有する我に気づけば、何の不足もない。すべてが充足して、「いのち」が溢れている。

 自分の息は自分でする以外にない。誰も我の息をしない。吸う息、吐く息は、我の息である。それが「いのち」である。

 若き日の右往左往は、そのためにある。

TOP PAGE   各種エッセイ目次  みたび日々徒然 目次