みたび日々徒然 42

木村天山    

 

 

 私は音楽プロデューサーであり、尚且つ、主催者である。私が良しとする演奏家を出演させるということは、理にかなっている。それが、プロでもアマでも。

 私はアマですという人がいても、その演奏が、私の心にかなっていれば、出演をお願いする。

 コンサートの主旨なるものも、私が決める。誰に言われる筋合いも無い。

 私は、お客を選ぶのである。

 コンサートの批判や評価は、百人百様である。良いという人も、悪いという人も、人の数だけある。それはそれでいい。それ以上のものではない。

 ただ言えることは、コンサートの形が、私から変わるということである。先見の明のある人なら気づくであろう。何せ、私は音楽に素人である。

 素人の私が行うコンサートであるから、既成のコンサートとは違うに決まっている。

 それはまた、私がお客の第一番であるという意識である。私はお客の代表として、プロデュースしているのである。

 アホはアホであることを知らないから、アホである。その私のコンサートにアホが批判をするという愚かさである。私は、素人であるから、批判の対象にならないのである。

 嫌なら、二度と来なければいい。それが、アホは、ひとくさり批判をするのであるから、哀れである。

 言ってみようか本当のことを。

 私はチラシから、プログラムまで、とことん適当に作る。そんなことが、重要ではない。私に重要な事は、芸ということである。芸という伝統に上に、私は芸というものを考えている。勿論、日本の芸である。あちらの国の芸ではない。それでは、日本の芸とは、何かということになる。

 日本の芸の伝統は、神と共に楽しむという伝統である。つまり、コンサートは楽しむものであるという、至極簡単なことである。

 難しいことを難しく扱う、あちらの国の芸とは違うのである。

 音楽一つにしても、音を楽しむ以外の何物でもない。そこに、プロもアマも無いのが、私の考えである。

 それを聴いて、楽しめないのなら、二度と来なければ言いのである。それだけである。 再度言う。私がプロデュースと主催するコンサートは、私が主なのであり、誰も、私に批判をする値打ちがないのである。私は、私が聴きたいコンサートを開催しているのである。アホは、いくらかばかりのお金を払い、コンサートの批判をする。僭越行為の何物でもない。恥を知れということになる。

 お客を選ぶと言った。解っていると思い込んでいるアホな客には、お引き取りいただきたいのである。アホは知識が豊富な場合があるが、そうなると、アホも骨頂になる。

 芸を知識で計るという愚かなことを平気でする。知識で、感性を曇らせている者に、芸が解るはずもないが、解ると思い込んでいる。哀れである。評論家、音楽学者などは、その最も足る者であろう。演奏家になれずに劣等感を抱いたまま生きるしかないという哀れさであるから言わないが、矢張り哀れである。

 またアホは、出ている音しか聞けないのである。聞こえない音を聞けないという。聞こえるものは聞こえないものに支えられてあるという真実を知らないから、更に哀れである。

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