みたび日々徒然 43

木村天山    

 

  世界を回っている作家の椎名誠が、日本人の顔について「シニカルに狡猾に感情を隠蔽した蝋細工のような顔。気張っているが本当は臆病で不安に満ちた人間不信の表情。世界のどこにも見ない顔」と言う。そして、小泉首相が、その代表的な顔をしていると言う。 時代はいつも危機であった。今も危機である。危機意識を持つ者によって、時代が創られた。そこには大志があった。

 今の日本で「志」を見るのは稀である。「志」を持てば、アウトローとして生きる以外にない。小賢しく金勘定する者で溢れている。

 「志」の別名は「希望」である。いつから日本は希望の持てない国になったのか。

 アメリカから入ってきたシステム販売の団体が「いずれ貧富の差が激しくなる、今のうちに会員になり、収入の道を作ろう」と勧誘する。目的達成の売上を一定期間上げると、会員種別が上になり、収入が増える。成功哲学なるものを掲げて勧誘する、その洗剤を始めとする物品販売の売り子になるのである。寂しい人は、その団体に入る。

 人生を、その程度に捕らえるようになって久しい。

 ある省庁のキャリアになって、30を過ぎると、天下りの話が始まる。一般のサラリーマンの10倍以上の年収を約束される。頭脳優秀な彼らに差別意識しかない。「志」の塵のかけらもなく、自分のことのみの人生である。

 だが、それはそれでいい。人それぞれの人生観であるから。

 一々上げれば限が無いから言わないが、日本は、何か別の流れに乗っている。

 それが顔に現れる。私は人相を観る者であるが、日本人の顔は、のっぺらになってしまった。臆病で不安に満ちた人間不信の顔と言われる。加えて言えば、アホなプライドを持ち合わせた顔である。根拠のないプライドである。

 寄る術のない流浪の民のようである。つまり、日本という国を忘れた顔である。国家意識希薄とでも言う。言論の自由という素晴らしい自由を得たはずが、その自由に振り回されて、さ迷える民となった。民主主義というお化けにたぶらかされて、数の多い方に流れる民となった。

 欧米の文化は理解するが、日本の文化は理解出来ないという国籍不明の日本人が闊歩しているという恐ろしい図がある。

 レッテルを貼ることに慣れているから言うが、私は左翼でも右翼でも、国粋主義でも、民族主義でも無い。ただ、私は一人の日本人である。日本人としての誇りを持って生きている。この国を愛している。この国の伝統を愛している。それは私の、極めて個人的な心情であり、他から犯されない私の矜持である。

 私には、深い愛国心がある。それは、他からレッテルを貼られるような「志」ではない。 保守主義とか、革新主義なども、もううんざりである。言葉遊びの極みであり、その議論は不毛である。言葉遊びだから、金を積まれれば、即座に意見を変更するアンポンタンが大勢いる。その程度である。

 もう一つ言っておく。見える世界は見えない世界に支配されるということである。見えない世界は想いの世界である。念の世界とも言う。思念は、現実化する。端的に言えば、思念は人を殺すことも出来る。その思念の有り様を忘れたアホどもが、何をか言う。

 もう一声言う。思念の世界の魔に犯されている者共である。魔界である。要するに魔界に支配されている者共である。勿論、彼らはそれを知らない。

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