みたび日々徒然 52

木村天山    

 アホなピアノ弾きがいる。(ピアノ弾きはアホが多いから例にする)

 弾けば弾く程、ピアノの音が狂う。ところが、アホはピアノ自体が狂っていると思う。自分が弾くことで、狂うとは、知らない。人生は、それに似る。

 自分が弾かなければ、ピアノは狂うことがないと知らないのである。

 またそういうピアノ弾きは、自分がピアノを弾けると勘違いする。つまり人に自分のピアノの音を聴かせられると信じている。そう教えられるとも言える。

 人生はそれに似ている。

 つまり人生が大きな勘違いで成り立つ人がいるということだ

 この世に、絶対とか、正しいということはない。相対の世界であるから、勘違いでも生きられる。それは、この世の幸である。

 考える力の無い人も、生きられるこの世である。だが、考える力の無い人は、多く世の中に迷惑を掛けるが、それを知らない。また、自分が考える力が無いということにも気づかない。

 そのアホが、また更にアホになると、世の中が混乱する。

 更にアホとは、考える力があると信じている者である。つまりアホではないと、信じているのである。それは知識を披露する者に多い。知識があるということで、アホではないと思う。語るのである。ところが、その語りが、浮ついている。実感として伝わらないのである。単なる知識だからである。それを知らない。

 こういうのを、大馬鹿者と言う。

 知識は多ければ多いほど、謙虚になるという特性がある。つまり、知ることは知らないことの多さを知ることであるから、知識の浅はかさを知ることなのである。謙虚にならざるを得ない。

 しかしアホに限って、有名、権威に弱く、それらの言葉を取り出して、悦に入る。

 言葉は、精神であるから、その人の言葉を聴けば、その人の精神が解る。言葉が乱れれば、精神が乱れることになる。アホは、人の言葉を自分の言葉のように語るから、精神さえもない。あるのは、愚かさだけである。哀れであるが、それを知らない。

 目覚めて生きるということは、至難の業である。

 分相応という言葉が廃れて久しい。昔の人は、分相応を徹底して生きた。それは真摯に生きることなのである。真摯に生きるということを忘れて生きている。ということは、宙に浮いて生きているということで、それは果たして生きるということになるのか、私は知らない。あえて言えば、生きているつもりで生きているとでも言う。

 ピアノ弾きに譬えると、ピアノを弾いているつもりでピアノ弾きをしていると言える。音の何たるかを知らず、音を出していると思い込んでいるということだ。

 哀れである。

 

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