みたび日々徒然 60

木村天山    

 時代が変わったということを言うが、それを実感として解る人は少ない。

 時代は変化し続けていることは、少し解るらしいが、今、時代が変化したのであるということを理解出来ない。識者であれば、それでは変化したものはと、具体的な事柄を上げて本を書くのであろうが、私は、面倒なので、そんなことはしない。

 私が言いたいことは、変化したことを、感覚で感じることが必要であるということだ。

 もうすでに観念的な小説を、誰も読まないというのに、せっせと観念的な小説を書いて、文学賞を狙う人に似ている。

 読む人は書く人になり、誰もが出版する時代になっている。そんな中で、プロの物書きとして活動するということは至難の業である。物書きで成功したければ、それなりの人間関係と営業が必要な時代なのである。

 小説家も、どんどん低年齢化している。これが、どんなことなのか。

 それは、既成の考え方を壊すという象徴に見えるのである。そして、その作品は、実に観念的ではないという事実。

 時代が変わるということは、言葉の意味が変わるということである。つまり、今までの言葉の理解ではなく、新しい言葉の理解が必要になったということである。

 それが、老いも若きも、まだ言葉の変化をしらない人が大勢いて、時代の変化を知らないという自体に陥っている。

 同じ言葉を使っても、意味合いが違うのである。言葉の通訳は、同じ意味合いの言葉で、通訳する。それで何となく、理解するのである。しかし、明確に意味が伝わるということはあり得ない。その微妙さに通訳は賭けるのである。

 新しい時代の新しい言葉の意味合いとは、解っているつもりの感覚を破壊してしまうことから始まる。再度、言葉の意味を吟味する、学ぶということであり、また、相手に言葉の意味を確認することである。

 何か違うと感じたら、相手に、その言葉の意味を確認することなのである。新しい感覚で語る人は、その言葉の意味も明確にしているのである。

 時代の先に行く人は、それを理解してもらうために、言葉に対して、非常に敏感に反応する。遅れている人が理解出来るようにと、渾身の力をこめて、かみ砕いて語る。その時、必ず言葉の意味を新しく定義する人もいる。言葉の意味が違えば、理解には至らない。

 理解するということは、実は至難の業なのである。

 そちらの物をあちらにと言っても、そちらが、どちらなのか解らないということになる。 そちらという言葉を知っていると過信すると、勘違いということになる。相手のそちらを、明確にすることである。新しい生き方を生きる人には、あえて言葉の意味を尋ねることである。

 大化改新や明治維新と違い、今は血なまぐさい行為は行われず、淡々として時代は、変化したのである。確実に言葉の意味が変化したのである。

 

 

TOP PAGE   各種エッセイ目次  みたび日々徒然 目次