みたび日々徒然 65

木村天山    

 私は天の邪鬼ではないかと思える時がある。まあ本人は、それでも善しと思っているが。 20年程前に「一杯のかけ蕎麦」というお話が流行したことがある。勿論、私はそれを読んではいない。だが、会えば皆が、その話をするので、読んだと同じ位に内容を知った。 まず、皆一応に感動して、泣いたという。

 大みそかの夜、店じまいが迫る頃、母親と二人の子供が、一杯のかけ蕎麦を三人で食べるという嘘臭い話である。それは貧しさであり、親子の情である。それで泣かせた。

 私はその物語については、何も言うことはない。お話であるから、どんなお話があってもいい。だが、それが実話であると言われた。

 日本中に広がりヒットヒットである。しかし、その後、このお話は作り話であるとか、作者の人間性について、色々と取り沙汰され、自然消滅した。一年程、持ったであろうか。 流行とは、その程度である。今も流行は変わらない。

 「感動で泣いた」「人生が変わった」「泣かせます」等々の本の帯を見ると、読みたくなくなる私は、矢張り天の邪鬼か。

 皆が読んで感動して泣くものは、嘘臭いのである。また気持ちが悪い、気味悪いのである。感動に飢えている。泣くことに飢えている。それ程、世の中が平和で、鈍化していると、思われる。

 私は、日々の生活が感動で泣く程の人生だから、本で書かれると、嘘のような気がするのである。確かに、学の無い私の父が、小説を書きたいと言うと、「悲しかったら、徹底的に悲しい話。楽しかったら、徹底的に楽しい話を書け」とアドバイスした。その通りであると思った。本は、そんな程度であろうと。

 フィクション、ノンフィクション問わず、極めると、そこに行き着く。

 私はベストセラーと言われる本を読んだことがない。それを読めば、時代が理解出来ると思ってもいない。そんな本を読む前に、沢山読まなければならない本がある。

 ある高名なジャーナリストが、古典など読んでも何にもならないと言うのを聞いて、その傲慢不遜に、嫌気がさした。時代を超えて残る本には、不易流行がある。人間の、ある一面の真実がある。

 時に、昔のベストセラーと言われた本を読むことはある。それはそれなりに意味がある。 私は自分が感動した本を人に薦めない。向こうから言われたら、貸すことはある。感動を人に押し付ける様は、哀れである。頭脳ゲームで感動しても、それはバーチャルリアリティのみで、だから、どうなのという話になる。

 ちなみに、いつの頃からか学者という稼業が、とんでもない権威を持ち始めて、とんでもないことを教えて、悦に入っている。今もそうである。頭脳ゲームだけを頼りに学ぶということを教えるから、実が無い。

 私は本を読むことで多くを教えられたが、それは教えられただけであり、現実ではない。私は、行動、行により、それを超えるものを教えられた。本の知識は、知恵ではない。知恵は、すべて行により、得ることが出来る。

 仏陀は、人は行為によって成ると言う。全く、その通りである。感動すると言われる本を読んで感動するのは、俄に愚かである。気分的に感動したのであり、今、この場から、何か行動が始まる程の感動ではないだろう。

 単なる気分的感動は、哀れである。

 

TOP PAGE   各種エッセイ目次  みたび日々徒然 目次