みたび日々徒然 70
木村天山
ピアノリサイタルを聴いた。
二人の優秀な男性ピアニストである。まだ学生でありながら、力量のあるピアニストで、そこまでは良い。しかしピアノリサイタルという形式は、もはや限界であると感じた。
第一部は約一時間。出て来て、お辞儀をして、弾き終わると拍手されて、お辞儀をして、下手に下がる。また出て来て、お辞儀をして、弾いて、拍手を受けて戻る。
私は、第一部が限界で、二部は辞退して会場を出た。
このコンサートは、自己満足なのだろうかというのが、私の本音である。いつからか、そういう形になったコンサートを、今も続けていられるという感覚に、疑問を覚えた。そして、お客が、本当にコンサートを楽しんでいるのかということである。
心底、ピアノが好きで、ピアノの音なら、なんでもいいと言う人がいれば成り立つだろうが、あれは限界である。
全く、サービス精神がない。例えば、ピアニストが、その曲に対しての感想を語ってもいいだろうし、四方山話をしてもいいだろう。息が抜けない状態であるから、聴いているというだけで、限界になる。しまいに、まだ終わらないのかと思う。
その間、静かに息をして、客席に縛り付けられているのである。動きが取れなくて、息苦しいのである。
同行者は、初めてピアノコンサートに来たという若者で、まず、お客に若者がいないことに驚き、そして、客席に縛り付けられていることに、学校の授業を思い出して、具合が悪くなったと言う。
二度とピアノコンサートに来ることもないだろうと、私はみた。
誰も、練習の成果を聴くのではない。音楽を楽しむために来るのである。私なら、良いCDを部屋で掛けて、体を横にして、リラックスして聴く。
座席に座って、リラックスは出来ない。もし、リラックスがあるなら、演奏以外の、別のサービスが必要である。
一定のお客にしか、もはや限界であることに気づかないのであれば、ピアノコンサートは廃れる。いや、すでに廃れている。大半が、付き合いで来ているだろうし、もしくは招待であろう。後は、ピアノを習う者が、勉強にきているのだ。
ピアニストが、ピアノだけを聴かせて、客を満足させるというのは、世界でも、日本でも、数える程であろう。
容姿端麗で、弾く姿を見ているだけで、見とれる程のピアニストとか、演奏の合間に、気分転換させる気遣い、気配りがあるとかである。
もう少し、賢く考えられないものだろうか。
一度来て、二度と来ないというお客がいることは、悲惨である。
決して、ピアノコンサートは無益ではない。リストが始めた当時と、今現在は、違うということを、考えるべきである。と言っても、クラシックの世界の人間は、変えられないだろうから、私がやるしかない。
素人の私だから出来る、ピアノコンサートをやるしかないと、結論に達するのである。