みたび日々徒然 76

木村天山    

 仏法について言う。

 仏法とは、仏陀の観たものであり、仏陀の求めたものである。

 さて、転じて日本の仏教を観る。それは仏法ではなく、宗教である。

 日本には、大乗仏教が半島を通して伝わったが、すでに、その頃から仏法ではなく、仏教という宗教が伝わったのである。

 さらに発展させて、仏教は、教祖仏教になった。特に鎌倉時代になると、それが顕著になった。勿論、平安時代の仏教も、その走りであり、最澄、空海共に仏教であり、仏法ではない。教えと、法の違いは、歴然としている。教えは、法の断片をもって、それを哲学、思想体系に膨らませて、教義を作るものである。

 一つの仏教集団が、仏法を任じることは誤りである。

 それは伝統仏教を名乗る宗派も同じである。教えは、仏法の断片をもって成る。

 私は、それらを否定しないことを前提に言う。

 例えば、法然の念仏や日蓮の題目などは、仏法の一断片をもって救済しようとする試みであり、それは試みであって、試み以外の何物でもない。それで救いを得ているというならば、是非も無い。

 私が言いたいことは、それを勘違いすることなかれということだ。

 仏教学者などは、枠外に置く。仏法を講義して、なにがしかの生業にしているという、それだけである。全く、仏法とは関係ない。仏法とは行動、行為であるから、彼らに、仏法を語る資格は無いと申し述べておく。

 仏陀の仏法は宗教ではない。よって何かを拝むとか、読経することによって成る宗教的行為とは、異なるのである。

 まして、西洋哲学が言うところの宗教哲学等で論じることは、ナンセンスである。これもはっきりと言っておく。

 仏陀滅後、500年を経て、我はこう聞いたという経典が出来たのであり、それは、仏陀の声、つまり生身の声でない。経典が出来ると教義が出来る。その当たりで、すでに仏法は、仏教に堕落した。特に、大乗なる仏教家の人々が現れて、仏法は廃れた。

 真言密教などは、外道と呼ばれるインドのバラモンなどから派生した、呪術を主体にしたもので、仏法とは掛け離れた宗教である。仏教とも言い難いのである。また、チベットに伝わった仏教もしかり。それを、仏教と一くくりにすることも出来ないのである。

 仏陀の仏法は、行動と行為にあるから、おおよそ日本の仏教、及び新興宗教で言う仏法なるものは、仏陀と全く関係ない。

 ここを明確にしておく。

 念仏宗も禅宗も題目宗も、争っている場合ではない。根本から、仏法に違反しているからである。仏陀は、念仏することも、題目を唱えることも、坐禅することも、断じていない。仏陀は心のあり方と、生き方をもって、仏に成ることを言ったのであり、今行われている宗教的行為は、すべて後々の人間が、組織のために、宗派のために作り上げたものである。そんな簡単なことを何故、知ろうとしないのか。私は疑問であったが、人のすることであるから、処世術が生じる。信者を持ち、組織を作れば、当然、それを維持するために、この世の方法に従う。しかし、そこに仏法は無い。

 何度も言う。仏法は行動と行為に尽きる。職業的僧侶は、仏法とは全く関係無いと言う。 ましてや、その宗派の教学なるものは、あって無きが如くあるものである。それは人間が作ったものである。

 教学をいくら学んでも、救われないことは、見ての通りである。暇潰しの最も足るものである。行動も行為もせずに、一体、何を学ぶというのだろうか。

 僧侶になるために、教学を学んで僧侶になるとしたら、それは、仏教、いや仏法とは全く関係ない世界のことである。

 行動と行為をもって、仏に成るということを目指すことが仏陀の言う仏法であるから、言わずと知れたことである。私は、今こそ、仏法の時代と思う者である。

 私の霊学から、端的に言う。仏法とは、大いなる和らぎの心である。それを生きることである。日本の伝統で言えば、大和心である。この、大いなる和らぎの心を行動する、行為することが仏法なのである。

 それにより、より完成に近い人間になること、それが仏法である。

 大和には、唯神道(かんながらのみち)がある。神へと成る道である。仏法も同じく、仏に成る道である。

 それは組織や集団で成せる行為ではない。独りで成す行為である。

 独りが、独りで神や仏に成る道である。

 すべての人が、神や仏に近づけるものではない。すべての人の救いを説く宗教なるものは、誤りである。それは幻想であり、妄想である。組織を守るべく、組織を作るべく、そうしているのであり、誤りも甚だしい。

 「救いに至る道は狭い」と言うキリストの言葉通りである。「逢い難くして逢う教え」と仏教では言う。その通りである。万人が救われる道はない。それは、独りで救いは成るからである。

 大乗の教えは、大勢を船に乗せて、彼岸へ行く道であると言うが、そんなことはあり得ない。一人が救われなければ、菩薩もそこに留まるというが、それは、後で付けた理屈であろう。弥陀の本願によって救われるという他力を説いた親鸞でさえ、それは深い哲学に至ったのであり、宗教、いや、仏法ではない。知識人に歓迎される親鸞であるが、仏法には遠い。

 仏陀は、人は行為によって成ると言った。神も仏も行為によってしか成らないのである。 もっと言うと、神や仏に人格は無い。つまり、それは法則と秩序であり、エネルギーであるから、神や仏は言葉を発しない。言葉を発した途端に、それは嘘であることを知る。溢れる程の言葉で成り立つ宗教が、仏法でなく、神法でもないことに気づく時代がきた。

 ひとえに、仏法は心のあり方の表現である行為のみに在る。すべては心が創るという仏法の極みは、行為による。

 心に無いものは行為として現れない。心和らげは、行為も和らぎ、それはまた心を創るのである。

 心は循環している。それは自然が心を写している通りである。自然の姿に神が宿ると観た大和の人の観た通りである。自然は循環して、その繰り返しの中に、神を現す。八百万神、千万神(ちおよろずのかみ)と観た、大和の人は正しい。

 これでなければならないということは、この世に一つも無い。この世に絶対というものは一つも無い。それを空と表現した仏教家がいるが、言葉遊びで終わったのである。

 

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