みたび日々徒然 93

木村天山   

 

 宗教について言う。

 天国と地獄。そして救い、悟り等々、宗教関する妄想は、あまりに目に余る。

 一端、冷静に宗教と、その団体を観ると、それは全体主義の何物でもない。神や仏の名を借りた全体主義である。私は、宗教は人間の創作したものとして、最も優れたものであると信じているが、それは個人の情操にある。極めて個人的な情緒であり、団体や集団、組織にあるのではない。

 宗教の重きは、この世にあるのではなく、神や仏という次元にあり、この世のもの、つまり地位や財産等々の人間社会の価値を否定する。そして、あろうことか、人間の基本的欲望まで否定して、平然として善男善女を脅している。

 カトリックの本山であるローマ法王庁は、世界的に、どれほどの権威と、地位と財産を持つものであるか。中世では、王までも支配したという、その権威である。仰天する。

 また、日本仏法なるものは、大乗仏法として、正法だの像法の時代が過ぎて、今は末法だと言い、仏の教えの廃れる時として、人間の在り方を悲観し、末法に現れる真実の仏法があると言い、信仰を広める伝統仏教から、新興宗教まである。正法だの像法だの、末法だのと、妄想であることを知らない。平安期から。末法と言い、仏教家は精進してきたようであるが、蓋を開ければ何のことはない、見事に葬式仏教と化し、権力者におもねた歴史から、のうのうと地位と財産を得て、信者を食い物にしているのである。

 私は笑う。

 インドでは既に仏教は廃れて、今は日本人の僧が新仏教を打ち立てて活動している。はっきり言うが、仏法はブッダが唱えた思想である。ブッダのオリジナルである。

 神や仏というのも、方便であることを知らない。神や仏に名のあるはずはなく、何と呼んでもいいのであるが、神と仏と言う。宗教だけは、オリジナルが流行らないようである。 低級な霊界から指導を受けて、新宗教を創設する多くの愚かな教祖たちを見ても、哀れを覚えるのみである。

 「真理の法と、我が身を頼め」とはブッダの臨終の言葉である。宗教の基本が、そこにある。神や仏を拝む、教義を拝む、教祖を拝む、はては、お札や仏像を拝むことではない。 宗教が自然崇拝から起こったことを知っているだろうか。そして、それが真っ当であったということ。何によって生かされているかということを知っていた古代の人々。太陽を崇めて、太陽に祈りを捧げた。そこに宗教の原型があり、それが真っ当である。

 人間の創作した、教義や思想に捕らわれて、悟りだの救いだのと、あまりに愚かな行為を続けて二千数百年。哀れである。

 空の思想、無の思想だのと、膨大な教義を作り、妄想して、心底堕落した、その宗教の残骸が、今跋扈する様を私は観る。

 宇宙の法則と秩序には、名前はなく、神でも仏でもない。そして人間は、その法則と秩序に抱かれて、その法則と秩序に合体する。人格神はあくまでも、人間の延長にあり、それは人間である。そして拝まれる神や仏は、ほとんど低いレベルの霊界にある。

 さて宇宙大の意識といっても、この宇宙が幾つあるのかも知らないのである。

 私は言う。立ち戻れ、自然と太陽の恵みにと。それらに生かされていることに気づくことが、宗教的心情であると。宗教とは、学ぶものではない。感じるものである。感じることの出来ない人もいる。感じることの出来ない人が、学んで宗教を得ることは無い。

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