写真が出来上がってきた。
二つだけ問題がある。
旧日本病院跡の、北マリアナ諸島博物館である。
そしてもう一つは、カーメル大聖堂である。
共に、画面が暗く、別次元の幕がかかる。
簡単に言う。
想念がかかっている。人の思いである。人の思いも、色々ある。喜怒哀楽、その他諸々である。
その場にいる、幽体の場合もある。
日本病院は、まだそこにいる人が在るのであろう。所在無く在るという方が当たっている。
行き場所を見つけられないのであろう。
後ろ髪を引かれる思いで出てきた。
そして、大聖堂である。
アメリカ人戦没者の多くが、大聖堂を天国として、いると思う。
朝夕のミサを受けて、それを善しとしている。私がビーチで祈った時に、反応がなかったのは、彼らは、大聖堂に集っていたからだ。
導き手がいなければ、彼らは、いつまでも教会に佇むであろう。
人々に祈られることは、ある種快感である。
せめて教会上空に移動することを願う。
私が祭壇から受けた、圧力は彼らからのものだったと思う。
彼らの想念は、塊になり、在る。それに、押された。
私は、ただ主イエスに、聖母に祈りを捧げたのみである。
これ以上は、僭越行為になるので、省略する。
嬉しいのは、慰霊の場所の写真が、皆、明るいことである。
最後に行った、サイパン最初の戦没者慰霊碑は、心配したが、実に明るく写る。
火炎樹に覆われていた。
その広がる枝に守られるようにしてある。
日本人観光客には、素通りされるような場所である。
誰の墓という程度だろう。
車が行き来して、静けさは無い。
しかし、鎮まるのである。
祝詞を献上して良かったと思う。
祝詞は、祈りではない。言霊、音霊による、清め祓いである。つまり、言霊、音霊という神による、行為になる。言葉は、神であるからだ。これが、日本の言葉である。
大和言葉は、そのまま神である。
その場で、私が和歌を読んでもよい。言葉自体に神が宿る。
それが言霊の思想である。
ちなみに、数霊もある。そして、この数霊、かずたまを、最も尊いものと言う人もいる。
ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここの、たり、ももち、よろず
それを唱えるだけで、数霊が働く。
数も神である。
日本人は、この日本の伝統を、再度、学ぶ必要がある。
ただし、私は素人であるから、それなりに研究し、実践する人に、学ぶことである。
アマテラスオホンミカミ
唱えるだけで、清め祓いが行われる。
音霊の力である。
天津祝詞の太祝詞言という、特別な音霊がある。
それぞれ、神道家たちにより、解釈が違う。
秘儀といわれていた。
しかし、秘儀は、悪用されないためにというが、嘘である。神の秘儀は、悪用出来ない。人間の勝手な思惑である。
秘密にされるもので、表に現されないものはない。
何々家だけに伝わる、何々流にだけ伝わるものというのは、大半が、嘘である。
秘密にするということ自体に傲慢がある。
すべての秘密は、誰の前にも、現されている。自然を見よ。秘密である。
神は、自然にすべての秘密を隠された。自然に溶け込めば、自ずと解るようになっている。
自然こそ、師である。
日本の伝統は、自然との共生、共感である。それ以外に無い。
古神道は、それが奥義である。
精霊信仰などと、解った風なことを言う者に注意せよ。彼らは、何も知らない。言葉遊びをしているだけであり、何一つ、実感として、解っていない。学者といわれる者どもが、そうである。
大和には、信仰という形態さえなかった。
信仰など必要なかった。
自然と共に生きることで、すべてを有した。稀に見る民族である。
アーと言えば、物事が開き、ウーと言えば、物事が動く・・・
言葉、音が、行為であった。
はらいたまえ きよめたまえ と唱えることで、清め祓いが行われる。
音が神だからである。
私の口から、神が出ると思えばよい。
実は、神という観念も無い。
それは、在るもの、すべてが真実だからである。真実の又の名を神と、後に呼んだ。
おしまい。
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