小西さんと別れて、ホテルの部屋に入った。
充実した、疲れである。
暫く言葉が出なかった。
迷いの一点も無い。
今、先ほどの行為が、遠い過去のような、感慨になった。
そして、事の大きさに、たじろいだ。
何という、大それたことを、考えてしまったことか。これを、ただ今の日本人に理解して貰うことは、至難の業であるし、誤解を多く受けるだろうと思った。
説明すれば、するほど、混乱するのではないかと、思えた。
何故慰霊するのかということは、霊的存在を言わなければ、ならないからだ。それは、信じるか、否かになり、追悼慰霊とは、関係ない、議論に陥る。
過去の歴史の検証と言いつつ、ただ、分析に始終していては、学者の無用さである。
検証するとは、追体験し、更に、行為することである。
分析ばかりを、善しとして、後は、何もない。
時間は、六時を過ぎた。
野中に言う。
チェンマイカレーの店に行こう。
胃腸の弱い時に食べると、すっきりするカレーと、聞いていたので、食べたいと思った。
生姜を主にした、カレーもあると言う。この暖かい土地で、体を温める生姜である。暖かい土地だから、体を冷やさないように、体を温めるものを、食べる。
その店は、地元の人の集う、店で、ホテルから、道を隔てた、向こう側、新市街にある。
こんな近くにあったとは。
店内は、開け放たれて、室内にいるという感じがしないのである。
注文して待つと、竹篭に入った、もち米の蒸かしたものが出てきた。それが、美味しい。
それをカレーと一緒に食べるのだ。
一度で、気に入ってしまった。
その後、何度も通うことになる。
確かに、辛い。その辛さがいい。清浄とした辛さである。
食べ終わると、本当にスッキリする。
汗を流して食べた。
食べ終わると、すぐにホテルに戻った。そして、私は、すぐにベッドに体を横たえた。
一度起き上がり、シャワーを浴びて、そのまま寝たのである。
もう、眠るしかなかった。
本日の行為は、大変な労力を使った。勿論、本望である。
珍しく、早く寝た。
そして、朝、早く目覚めた。
忘れない内にと、手帳に、行ったことを書き入れた。
時間の推移と、食べた物なども書き入れた。
書いて置かなければ、忘れる。特に、忘れやすくなっている。
そして、七時になったので、下に降りた。
一階のレストランは、準備を始めている。
私は、テラス、歩道に置かれた、テーブルについた。
コーヒーを頼んだ。
暫く、コーヒーを飲んで、ぼんやりと、道行く人や、車を眺めていた。
八時に近くなった時、おはようございます、と、声を掛けられた。
小西さんである。
アア、昨日は、お世話になりましたと、お礼を言う。言い表せない感動を覚えましたと、伝えた。
小西さんが言う。
このホテルに泊まっている、桜会の人を迎えに来たと。
慰霊のために、桜を植えている方々である。
小西さんのコーヒーを注文して、暫く、話をした。
私に、財団の活動パンフレットや、追悼慰霊碑の、様々を書いたものを、渡してくれた。
暫くすると、二人の日本人男性が、現れた。
二人に紹介された。
本日、これから、メーホンソンに行き、植樹してくるとのこと。
彼らも、この財団の活動をテレビで見て知り、コンタクトしたという。
メーホンソンは、飛行機で、30分程度で行く。バスだと、八時間かかる。
来年、私も、そちらで、追悼慰霊をしたいと思っていた。
立ち話で、三人と、別れた。
私は、サンドイッチを注文して、まだ、暫く、テラスで、過ごした。
矢張り、止むに止まれず、何かを行為したいという人がいる。当然である。過去を知れば、過去に何か出来ることは、ないかと思うものである。特に、同じ日本人が、異国の地で、多く亡くなっているのである。通常の神経の者ならば、当然、何か出来ないかと、考える。
二人から、頂いた名刺を眺めつつ、食事をした。
この日は、ホテルを引き払い、安いホテルというか、ゲストハウスに近いホテルに移動する。
二日前に、私が探したホテルで、それは、歩いてすぐの、新市街にあった。
その辺りには、多くのゲストハウスがある。
100バーツから、部屋があるのだ。約330円で、一泊である。若者なら、そんな部屋でも、平気である。
一泊、400バーツであった。部屋の広さが、半分になっただけで、後の設備は、変わらない。
部屋に戻り、荷物の整理を始めた。
野中も、起きていた。
整理が終わると、もう、正午に近い。チェックアウトの時間である。
フロントで、支払いを済ませると、カムバック アゲンと言われた。
まだ、滞在することを知っている。また、来て下さいと言う。
実は、私が、移動するのが、面倒だと、最終日の11日まで滞在するから、料金をまけてくれと、交渉したのだ。一泊600バーツになればと思った。何事も、言ってみなければ、解らない。
すると、驚いた。日本語で、これで精一杯でございます、と言う。
750バーツが、最低の値段なのだ。まあ、900バーツを750バーツにしているのである。
私は、諦めた。そして、安いホテルを探したのである。
荷物を下に降ろすと、タクシーと声がかかるが、タクシーに乗る距離ではない。
歩いて、行く。
ターペー門を抜けて、新市街に入り、中小路にある、ホテルに向かった。実は、そのホテルの前に、前回、よく来た、イタリア料理の店がある。
その時は、イタリア人の経営で、実に、美味しかった。
その後、経営がタイ人に変わった。イタリア人が、タイ人の妻を連れて、本国に戻ったと、野中から、聞いた。
それでも、野中が、何度か、通って、新しい経営者と、仲良くなっていた。
新しい部屋に、荷物を置いて、すぐに、その店に出た。
野中の顔を見ると、そこにいた女性が、驚き、コウタ、コウタと連発する。
経営者の妹さんが、店を仕切っていた。
彼女は、二階の姉を、呼ぶ。
姉も出てきて、私たちを迎えた。
姉は、バイクで事故を起こし、右足を痛めて、松葉杖をついていた。
野中と、英語と、やり取りをする。
ご主人が、イギリス人であかるから、英語が、ぺらぺらである。
私たちは、パスタを注文した。
その味は、見事に、タイ風に変化していた。
そこで、暫く過ごして、部屋に戻り、荷物を取り出して、整理した。
この部屋に最後までいるつもりである。
もう、部屋を移動するのは、面倒だ。
部屋に戻ると、小西さんから、野中に電話が入り、日本領事館の総領事が私に会うとのこと。小西さんに、領事館から後援を頂きたいと言ったのが、すぐに、実行されたのだ。
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