木村天山旅日記

遥かなる慰霊の旅 平成19年11月1日

第一一話

 

小西さんと別れて、ホテルの部屋に入った。

充実した、疲れである。

 

暫く言葉が出なかった。

迷いの一点も無い。

 

今、先ほどの行為が、遠い過去のような、感慨になった。

そして、事の大きさに、たじろいだ。

何という、大それたことを、考えてしまったことか。これを、ただ今の日本人に理解して貰うことは、至難の業であるし、誤解を多く受けるだろうと思った。

 

説明すれば、するほど、混乱するのではないかと、思えた。

何故慰霊するのかということは、霊的存在を言わなければ、ならないからだ。それは、信じるか、否かになり、追悼慰霊とは、関係ない、議論に陥る。

 

過去の歴史の検証と言いつつ、ただ、分析に始終していては、学者の無用さである。

検証するとは、追体験し、更に、行為することである。

 

分析ばかりを、善しとして、後は、何もない。

 

時間は、六時を過ぎた。

野中に言う。

チェンマイカレーの店に行こう。

胃腸の弱い時に食べると、すっきりするカレーと、聞いていたので、食べたいと思った。

生姜を主にした、カレーもあると言う。この暖かい土地で、体を温める生姜である。暖かい土地だから、体を冷やさないように、体を温めるものを、食べる。

 

その店は、地元の人の集う、店で、ホテルから、道を隔てた、向こう側、新市街にある。

こんな近くにあったとは。

 

店内は、開け放たれて、室内にいるという感じがしないのである。

 

注文して待つと、竹篭に入った、もち米の蒸かしたものが出てきた。それが、美味しい。

それをカレーと一緒に食べるのだ。

一度で、気に入ってしまった。

その後、何度も通うことになる。

 

確かに、辛い。その辛さがいい。清浄とした辛さである。

食べ終わると、本当にスッキリする。

 

汗を流して食べた。

食べ終わると、すぐにホテルに戻った。そして、私は、すぐにベッドに体を横たえた。

 

一度起き上がり、シャワーを浴びて、そのまま寝たのである。

もう、眠るしかなかった。

本日の行為は、大変な労力を使った。勿論、本望である。

 

珍しく、早く寝た。

そして、朝、早く目覚めた。

忘れない内にと、手帳に、行ったことを書き入れた。

時間の推移と、食べた物なども書き入れた。

書いて置かなければ、忘れる。特に、忘れやすくなっている。

 

そして、七時になったので、下に降りた。

一階のレストランは、準備を始めている。

私は、テラス、歩道に置かれた、テーブルについた。

コーヒーを頼んだ。

 

暫く、コーヒーを飲んで、ぼんやりと、道行く人や、車を眺めていた。

 

八時に近くなった時、おはようございます、と、声を掛けられた。

小西さんである。

アア、昨日は、お世話になりましたと、お礼を言う。言い表せない感動を覚えましたと、伝えた。

小西さんが言う。

このホテルに泊まっている、桜会の人を迎えに来たと。

 

慰霊のために、桜を植えている方々である。

 

小西さんのコーヒーを注文して、暫く、話をした。

私に、財団の活動パンフレットや、追悼慰霊碑の、様々を書いたものを、渡してくれた。

暫くすると、二人の日本人男性が、現れた。

二人に紹介された。

 

本日、これから、メーホンソンに行き、植樹してくるとのこと。

彼らも、この財団の活動をテレビで見て知り、コンタクトしたという。

 

メーホンソンは、飛行機で、30分程度で行く。バスだと、八時間かかる。

来年、私も、そちらで、追悼慰霊をしたいと思っていた。

 

立ち話で、三人と、別れた。

 

私は、サンドイッチを注文して、まだ、暫く、テラスで、過ごした。

 

矢張り、止むに止まれず、何かを行為したいという人がいる。当然である。過去を知れば、過去に何か出来ることは、ないかと思うものである。特に、同じ日本人が、異国の地で、多く亡くなっているのである。通常の神経の者ならば、当然、何か出来ないかと、考える。

 

二人から、頂いた名刺を眺めつつ、食事をした。

 

この日は、ホテルを引き払い、安いホテルというか、ゲストハウスに近いホテルに移動する。

二日前に、私が探したホテルで、それは、歩いてすぐの、新市街にあった。

その辺りには、多くのゲストハウスがある。

100バーツから、部屋があるのだ。約330円で、一泊である。若者なら、そんな部屋でも、平気である。

 

一泊、400バーツであった。部屋の広さが、半分になっただけで、後の設備は、変わらない。

 

部屋に戻り、荷物の整理を始めた。

野中も、起きていた。

整理が終わると、もう、正午に近い。チェックアウトの時間である。

 

フロントで、支払いを済ませると、カムバック アゲンと言われた。

まだ、滞在することを知っている。また、来て下さいと言う。

実は、私が、移動するのが、面倒だと、最終日の11日まで滞在するから、料金をまけてくれと、交渉したのだ。一泊600バーツになればと思った。何事も、言ってみなければ、解らない。

すると、驚いた。日本語で、これで精一杯でございます、と言う。

750バーツが、最低の値段なのだ。まあ、900バーツを750バーツにしているのである。

 

私は、諦めた。そして、安いホテルを探したのである。

 

荷物を下に降ろすと、タクシーと声がかかるが、タクシーに乗る距離ではない。

歩いて、行く。

ターペー門を抜けて、新市街に入り、中小路にある、ホテルに向かった。実は、そのホテルの前に、前回、よく来た、イタリア料理の店がある。

その時は、イタリア人の経営で、実に、美味しかった。

その後、経営がタイ人に変わった。イタリア人が、タイ人の妻を連れて、本国に戻ったと、野中から、聞いた。

それでも、野中が、何度か、通って、新しい経営者と、仲良くなっていた。

 

新しい部屋に、荷物を置いて、すぐに、その店に出た。

 

野中の顔を見ると、そこにいた女性が、驚き、コウタ、コウタと連発する。

経営者の妹さんが、店を仕切っていた。

彼女は、二階の姉を、呼ぶ。

姉も出てきて、私たちを迎えた。

 

姉は、バイクで事故を起こし、右足を痛めて、松葉杖をついていた。

野中と、英語と、やり取りをする。

ご主人が、イギリス人であかるから、英語が、ぺらぺらである。

 

私たちは、パスタを注文した。

その味は、見事に、タイ風に変化していた。

 

そこで、暫く過ごして、部屋に戻り、荷物を取り出して、整理した。

この部屋に最後までいるつもりである。

もう、部屋を移動するのは、面倒だ。

 

部屋に戻ると、小西さんから、野中に電話が入り、日本領事館の総領事が私に会うとのこと。小西さんに、領事館から後援を頂きたいと言ったのが、すぐに、実行されたのだ。