木村天山旅日記

遥かなる慰霊の旅 平成19年11月1日

第二〇話

 

書き忘れたこと、書き足すことを書く。

 

慰霊碑のある、バンカート学校で、教師の三人とお会いし、お話した。丁度、校長先生が、出掛けていて、私たちの対応をしてくださった。

 

色々と話をした。

今回、コンサートを開催すると言うと、一人の先生が、こんな言葉を言った。

タイにいらして、日本の歌などを披露されること、タイ国民の一人として、感謝しますと。

また、来年、学校にても、コンサートをしますと言うと、更に、タイ国民として、との言葉が出る。

 

その時は、何気なく聞いていたが、戻って反芻すると、それは、大変なことを言うと思った。いま、日本で、日本国民を代表してなどと言う人は、いない。

それ程、日本人は、日本人であることを、意識しなくていのである。

それは、幸せなことでもある。

 

しかし、このままで行くと、子供たちが、日本人であるということに、何の感慨もなく、更に、無国籍の人間のようになる。料理ならば、無国籍と言ってもいいが、人間である。そうは、いかない。

 

海外に出ても、日本人は、日本人であるということに、誇りを持てないである。

何かしら、後ろめたいものを持つ。

それは、教育だろうと思う。

 

今の子供たちの親は、自虐史観というものを前提に、日本史を学んだ。私も、そうである。兎に角、日本は、悪いという前提から、歴史の勉強が始まる。

事実を習うのではなく、その史観を習うのである。

今、それの犯人探しをしない。もう、そんなことを言っている場合ではない。

 

その自虐史観によって、日本の歴史、日本というものが、すべて悪いという、イメージを持った。これは、由々しきことである。また、悲惨である。

自国に、誇りを持てないのである。

 

ある日、チェンマイの雑貨屋で、日本の新聞を買った。

その時、新聞を渡してくれた、おじさんが言った。

ジャパン ナンバー ワンと。

その時、私は、深くおじぎをした。自然に、である。

 

おじさんは、色々な意味を込めて、言ったと思う。

チェンマイには、日本の企業が多いこともある。

車や、電化製品等々、ジャパンが目立つ。

タイと日本は、アジアの中での貿易は、一番である。

 

日本が本当に困る時、助けてくれるのも、タイであろうと思う。

あの、米不作で、米不足の時に、すぐにタイ米が来た。

 

タイ国民の一人としての言葉が、耳から離れない。

 

そして、もう一つは、学校の音楽授業である。

西洋音楽は、一切無いという。

驚いた。

では何をやっているのかと言えば、民族音楽である。

子供たちが、持ち寄る楽器で、民族音楽を、やっているという。

 

ピアノは無いんですかと、尋ねると、無いという。

日本で、音楽教育といえば、西洋音楽が当たり前である。しかし、タイでは、民族音楽が当たり前なのである。

日本にても、琴や三味線などの、古典音楽の授業が、始まったというが、基本は、西洋音楽である。

それに、ピアノは、高くて、買うことが出来ないと言った。

 

市内を調べてみると、日本のヤマハが、音楽教室を開講している。

それは、ヤマハの楽器を売るためである。

私の使用した、ホールには、ヤマハのピアノがあった。

 

チェンマイでの、西洋音楽は、まだまだ、始まったばかりである。

これから、どのように動いて行くのか、期待出来るが、基本に、民族音楽があることが、救いである。

 

チェンマイでの、音楽コンサートは、ジャズなどのものが多く、後は、タイの歌謡曲である。ホールは、それなりにある。

チェンマイ大学などのホールは、巨大だ。

 

タイの歌謡曲は、前回来た時に、聴いている。

タイポップスとでも言うのか、まだ、明確に分かれている訳ではない。

日本の30年程前のような、メロディーの印象がある。

 

日本の古い歌のメロディーならば、受け入れられる気がした。

今回のコンサートで、古賀メロディーも入れたことは、良かった。それは、日本人にも、タイ人にもである。

 

チェンマイにも、階層がある。

私は、一般の人、つまり、街中の人々の生活を見ている。

高い階層の人は、別の場所にいるのだろう。

勿論、来年のコンサートは、広く告知して、様々な人に来て貰いたいと思う。

 

ピアノ演奏も、考えている。

少しでも、クラシックファンはいる。

ヤマハの路線とは、別にして、音楽コンサートを開催してゆくつもりだ。

セミナーの需要があれば、開催してもいいと思う。

 

慧燈財団の日本語学校が、今は、お休みしているが、その建物がある。

私は、財団と同じく、無料日本語講座を考えていた。

財団は、日本語検定二級を目指して、講座を開催している。

一年制である。

事務長の小西さんは、一人一人の学生に、里親をつけて、開催の目途を立てたいと言う。

学費の無い人を対象にするということだ。

 

私は、検定に関係なく、日本語を教えたいと思う。

日本語が出来れば、仕事や商売に生かせる。

場所が確保出来れば、すぐにでも、始められるので、財団の教室の空きを、借りてもいいと思う。

 

先生は、日本人の長期滞在者からも、お願い出来る。

先生の資格を持つ人より、実際的な日本語を教えられるはずだ。

日本語を覚えることは、日本を理解するのに、一番である。日本語の中に、日本の文化が、すべて入ってる。

 

さて、それから、私は、日本にても、支援の必要な人々がいることを、知っている。

中でも、何らかの事情で、親を失った子供たちである。

あしなが育英会という、団体がある。

 

いつも、気にかけていた。

本来は、日本の企業が全面支援をしても、良いはずである。

日本の宝になる。

ところが、あまり、そういう話は、聞かない。

不思議だ。実に、不思議だ。

 

結局、アメリカと、同じで、周辺国を搾取して、国力を増すということを、平気でする。つまり、労働力の安い国に、工場等を作り、自国の人を無視して、そして、他国の人を、利用する。

精々、半世紀程の時代をしか、見渡せないのである。

千年の日本を見ることが出来ない。

 

アフリカを、見よ。

世界の人類の発祥である。それが、今では、内戦、内戦を繰り返し、世界から搾取されて、どうにも出来ないでいる。

ナイルに栄えたエジプトの文明は、どうした。

結局、今は、過去の栄華を誇るのみ。

 

文明国も、同じことを、繰り返している。

 

勿論、千年先を見つめていては、今の時代に、誤解されるばかりになろう。

 

そうして、歴史は、繰り返すのである。

千年を経た時、日本が、最貧国になっているという、図である。

いや、日本という国が消滅しているのであろう。

結局、野蛮な大陸の民族が、支配しているという様であろう。

 

兎も角、私が出来る、千年の日本のために、することをする。

それ以外に、望むものはない。