31日、朝、9時半にホテルを出る。
子供たちと、11時頃に、橋の上で逢う約束をした。
ところが、ミャンマー時間は、タイ時間より、20分早いのである。
どちらの、時間になっているのかを、知らない。
兎に角、昨日の橋の下に行き、慰霊をすることにした。
流れの速い川を見つめて、すぐに、近くの木の枝を折った。
それに、白紙をつけて、御幣の出来上がりである。
空は、薄曇りである。
東の空に、拍手を打ち、川に向かって、祝詞を献上する。
幣帛に、神々を御呼びする。
ひとまず、川を清め祓いし、それを持って、国境を越える。
橋の上に上がり、タイ側のイミグレーションを通る。スタンプを押されて、次は、ミャンマー側に向かうが、そのまま、通らない。
まず、タイと、ミャンマーの真ん中に、立つ。
旗が、タイからミャンマーに、変わる場所である。
人の目があるが、気にしない。しかし、即座に、事を行う。
まず、日本兵の霊位を、御呼びする。
この、依り代に、来たまえと、念じる。そして、迎えに来ました、私と共に、橋を渡りますと、やや命令口調で、言挙げする。
霊位が動きやすいように、言霊、音霊を、小さく唱える。
霊位は、音に乗る。
その間、周囲の人の、動きが、制止しているように感じた。
スタッフに後で聞くと、皆、注視していたという。
特に、坊さんは、じっと目を凝らして見つめていた。
ある者は、スタッフに、何をしているのかと、問い掛けた。そこで、簡単に説明すると、納得したという。
感応したことにより、私は、四方を清め祓いした。
この橋を渡れないという、兵士の想念を、祓うのである。
この橋を渡りたまえ。
そして、故郷にお帰りください。
祓い給え、清め給えと、四度唱えて、早々にして終わる。
気がつくと、皆が、私を見つめている。
御幣を川に投げ入れて、即座に、ミャンマー側のイミグレーションに向かった。
一人、10ドルを払い、写真を撮られる。
パスポートを預けて、略式通行証を貰う。
昨年来た時とは、雰囲気が違う。
昨年は、丁度、日本人ジャーナリストが、軍に殺害されて、ビリビリしているようだった。
今回は、比較的、和やかで、のんびりしている様子。
スムーズに抜けて、タチレクの街中に入る。
私たちは、昨年衣服支援をした、川沿いの、スラムに向かった。
ところが、風景が違う。
川沿いに、ホテルが建っていた。
その場所には、家があったはず。
そして、私が四人の子供に、衣服を差し上げた家は、本屋になっていて、あの時の子供たちの姿がない。
更に、スラムの一角を、警護していた、おじいさんもいない。
別な、おじいさんに、尋ねた。
すると、皆散り散りになったという。
今は、シャン族の人たちが、住むというから、驚いた。
私たちは、日本から、子供の服を持って来ていますが、必要でかと、尋ねると、子供たちは沢山いるとのこと。
中に入ってもいいですか。
いいよ、いいよ、と、おじいさんが言う。
サワディーと、タイ語の挨拶をして、中に入った。
二階建ての、集合アパートのようである。
日本のアパートを想像しては、違う。
地震などきたら、一気に崩れる建物である。
数人の女性たちがいた。
そして、バッグを広げて、衣服を取り出すと、次から次と、部屋から、人が出て来た。
汗だくになりながら、一人一人に手渡す。
今、学校に行っているが、三人の男の子がいますという、母親に、三人分の、衣服を差し上げる。
大きさを、確認しつつ、手渡す。
一通り終わると、先のおじいさんも、傍に来て、私にも、何か下さいと言う。
丁度、細いマフラーがあり、二本、おじいさんの肩に掛けた。
すると、皆から、歓声が上がった。
この、おじいさんは、皆の、まとめ役のようである。
汗だくの私を見かねてか、一人の母親が、私たちに、水を持ってきた。
ポットから、コップに、並々と注いだ。
それを、差し出されて、さてと、二人で見合わせた。
その水を飲むことは、非常な危険である。
生水は、命取りになる。
菌に当たると、一日寝ていなければならないし、もっと悪い場合は、病院行きである。
しかし、私は、一気に飲み干した。
スタッフも、飲んだ。
彼らが、私たちに、持て成すことが出来るのは、水だけなのである。
それを、拒む理由は、生水であるということだけ。
私は、水ではなく、好意を頂いた。
好意を、飲む。
皆、笑顔で、私たちが飲むのを見ていた。
それで、知り合いになった。
おじいさんが、今度は、いつ来ると、尋ねるので、来年来ますと答える。
今度は、前のホテルに泊まりますと、余計なことまで、言ってしまった。
皆の歓声に、送られて、私たちは、そこを出て、大きな通りに出た。
折角だからと、一件の食堂に入り、コーヒーを注文した。
ブラックかと、訊かれて、頷く。
出て来たコーヒーを飲んで、びっくり。
ミルクと砂糖の、インスタントコーヒーである。
これが、ブラックとすると、普通のコーヒーは、どんなものかと、話し合った。
それには、お菓子が着いてきた。
パリパリとした、薄い煎餅のようなものである。
そして、それに着けて食べるのだろう、小皿に、よく解らないタレが出て来た。
その店主と、スタッフが、英語で、話した。
この、タチレクには、空港があるという。
私たちが、これから、ヤンゴンに向かうと、思っていたようである。
空港があるなどとは、知らなかった。
ここから、ヤンゴンや、マンダーレに行くことが出来るのである。
店主は、地図を指しながら、説明する。
その時、私は、児童買春が出来るところを、尋ねたい衝動に駆られた。
しかし、店員たちが、昼の食事の用意をはじめているし、尋ねることが、ためらわれた。
この街の、どこかに、あるはずである。
微妙な話題でから、矢張り、訊きそびれた。
時間を見て、そろそろ橋に向かうべきだと、スタッフを促した。
二人で、30バーツを払った。
タチレクでは、タイバーツが使える。
残りの衣服を抱えて、国境の橋に向かう。
大きめの衣服が、残り、丁度良い具合である。
ただ、私は、汗が引かず、顔から、汗が噴出す。
着物は、汗で、搾れるほどである。
この紗の着物は、仕立ててから、着るのは、二度目である。
帰国して、すぐに、丸洗いに出さなければならないと、思う。
汗は、形になり、残るのである。
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