木村天山旅日記

 フィリピンへ
 
平成21年
 1月
 

 第9話

1896年から98年にかけて起こった、フィリピン革命により、近代国家としての、歴史がはじまるといえる。

 

96年八月末、カティプーナンという秘密結社のメンバーが、身分証明書を破り捨て、スペインに対する、忠誠を破棄した。

結社は、メンバーは、人民の子らの中でも、最も尊敬すべき協会という意味である。

 

反乱は、タガログ地方から始まった。

 

メンバーの中心は、マニラの労働者街出身者が多く、マニラの有力者の支持を得ていた。

地主、商人、町の役人、教師、弁護士などで、彼らは、地方の中学で、スペイン語を修めていた。

 

1897年に、カティプーナンの主導権を把握したのは、エミリオ・アギナルドである。

彼は、中国系の血をひき、マニラの南西の町の町長だった。

 

その革命に、間接的に影響を与えたのが、ホセ・リサールだった。

中国系の血をひく、タガログ人であり、スペインに留学して、医師になった。

彼は、スペイン系修道会と、原住民協力者の悪行を暴露した二つの小説を書いて、人の知るところとなる。

 

リサールは、武力蜂起や革命を求める、変化のシナリオを提供したのである。

それに影響を受けたのが、ボニファシオであり、リサールの小説にある、武装蜂起の道を、選んだ。

 

だが、リサール自身は、その活動に参加しなかった。

彼は、母なるスペインから、独立するためには、人々には、更なる教育が必要だと、信じていた。

 

彼が、英雄視されたのは、1896年に、銃殺隊によって、処刑されたことからである。

 

処刑の意味は、反植民地主義の小説を書いたこと。革命の指導者たちに、影響を与えたことである。

 

だが、リサールの死が、知らされると、タガログ地方のみか、革命の火は、全国に広がった。

 

97年には、フィリピン全土で、治安が悪くなり、革命運動が、激しくなった。

合言葉は、リサール万歳である。

 

1879年半ばに、アギナルド率いる革命軍が、スペイン軍によって、マニラ北方の山間部に、退却せざるをえなくなる。

その年末、両者は、アクナバルト協約と呼ばれる妥協策により、アギナルドと側近は、多額の金銭と引き換えに、香港に、亡命することになった。

 

革命の第一段階が、これで終わった。

しかし、武装集団と、スペイン軍、スペインに忠誠を誓う民兵との間で、小規模ながら、戦闘は、続いた。

 

革命第二期は、1898年の、アメリカが、スペインに、宣戦布告したことから、始まる。

 

フィリピン独立を支援すると、アメリカの約束を信じた、アギナルドは、米海軍の軍艦で、フィリピンに戻り、革命軍を編成する。

更に、6月12日に、フィリピン独立宣言をする。

 

その後、米軍が、マニラ湾で、スペインの艦船を撃沈させ、マニラを占領する。

 

フィリピン革命軍も、至る所の、スペイン軍事基地を攻撃、包囲して、7月8月には、スペイン側が、降伏する。

 

1899年、1月23日、マロロス議会は、6月12日の独立宣言を批准し、共和国政府を、樹立する。

 

しかし、それも、束の間だった。

何と、アメリカは、その前月に、二千万ドルをスペインに支払い、フィリピン諸島を、スペインから、買い取ったのである。

 

米軍は、フィリピン人のマニラ立ち入りを、禁止したため、99年2月に、地方の支配権を巡り、共和国軍と、米軍の戦いが始まったのである。

 

アギナルドは、1901年5月に、捕らえられたが、配下の者達が、1902年4月の、降伏まで、戦うことになる。

革命は、終わった。

次は、アメリカ統治時代である。

 

スペイン統治時代は、カトリシズムによって、フィリピンの精神的支柱が、出来たといえる。

では、アメリカ統治は、何をもたらしたのか。

 

アメリカ軍の手に落ちた地域から、地方首長選挙が行われた。

更に、アメリカは、1907年10月までに、フィリピン諸島を統治する、フィリピン委員会をもって、当たった。

その次に、第二次フィリピン委員会が、発足し、統治上の立法、行政機関として、機能する。

 

アメリカの、フィリピン統治の重要な文書は、1898年12月の、アメリカ大統領マッキンレーの、恩恵的同化政策である。

 

第二次フィリピン委員会は、恩恵的同化政策を、推し進めた。

それは、段階的に、アメリカ統治下において、フィリピン人に、どのように、自治を与えてゆくかということだった。

 

その結果は、制限選挙による、フィリピン議会の設立である。

 

1907年10月に、フィリピン議会が発足した。

 

それは、二院制立法議会の、下院に当たるもので、上院は、アメリカのフィリピン委員会が当たるものである。要するに、形だけを、取り入れたのであり、支配は、アメリカである。

 

立法、行政の、大幅なフィリピン化が行われたのは、ハリソン総督時代である。

1916年の、ジョーンズ法制定である。

それは、フィリピン自治法であった。

 

そして、その年、委員会は、廃止される。

 

立法府は、上院、下院共に、フィリピン人によって成立するものになった。

 

1921年から、27年の、ウッド総督時代は、フィリピン議員と、対立したが、その後は、次第に、改善された。

 

そして、1935年11月、フィリピン・コモンウェルス、独立準備政府が発足し、ケソンが大統領に、オスメーニャが、副大統領になった。

 

だが、この政府も、1941年12月に、日本軍の攻撃により、ワシントンにて、亡命政府となったのである。

 

これから、日本の侵略の時代が始まる。

 

以上を総括すると、アメリカにより、フィリピンは、アメリカ型政治形態を学んだのである。

 

更に、アメリカは、教育と言語を通して、自国の文化と、価値観を浸透させたということである。

 

教育用語が、英語にされたということは、実に大きなことである。

 

フィリピンのエリートは、アメリカの教育を受け入れ、また文化的嗜好も、アメリカを受け入れて、高い社会的地位を保持したといえる。

 

現在も、5歳から、英語教育がはじまる。

これは、日本が、英語教育を導入するに、大変大きな、示唆を与える。

果たして、フィリピンは、英語教育で、幸せになったかということである。

幸せ感覚は、極めて個人的な、嗜好であるが、フィリピンという国、全体にとっては、如何なることだったのかということを、見るべきである。

 

マニラという、首都でありながら、路上生活者や、今日の寝場所、食べ物を求める人で、溢れている。

 

更に、フィリピンが得るお金は、海外に、出稼ぎに行く人々によると、聞くのである。

 

英語により、海外に出るに、英語が出来るから、不便ではないというような、問題ではない。

もっと、根本的な問題がある。

フィリピン人としての、自己統一性である。

それが、問題である。

 

フィリピン社会に、蔓延した、アメリカ的志向の呪縛は、独立後も、続いた。

今も、続いていると、私は、見ている。