木村天山旅日

  ヤンゴンへ
  
平成21年3月 

 

第8話

ビルマは、近隣諸国にまで、勢力を伸ばした王朝があったが、インドを植民地として支配していた、イギリスにより、19世紀に、ビルマ・コンバウン王朝と、三度の戦いで、勝ちをおさめ、1885年の第三次英緬戦争によって、コンバウン王朝最後のティボー王は、イギリス軍に捕らえられ、マンダレーの王宮から、インド・ボンベイに連れ去られ、ビルマ全土は、イギリスのものとなった。

 

イギリスは、最初、ビルマを、イギリス領インドの、一州として、インド総督の統治の下に置いた。

その後、1937年、インドから分離し、ビルマ総督が支配する体制になった。

 

だが、シャン、カチン、チン族などの、少数部族の多い、山岳地帯では、フロンティア・エリアとして、平原部のように、総督の直轄支配地域とはせず、藩王や、土侯などの、封建的権力者を通して、間接的に支配した。

 

このイギリスの、植民地支配は、後に、様々な問題を生むことになる。

ビルマ平原部と、辺境地域の統治形態が異なるために、住民の一体感が、薄く、独立運動においても、独立後も、両者が、協力体制を取ることが、難しかった。

 

更に、山岳部では、キリスト教に、改宗する人が多かった。

イギリス人は、仏教からの、改宗を拒むビルマ人より、キリスト教を受け入れ、西洋文明に理解を示す、小数部族出身者の方が、使いやすく、植民地政府の役人として、殖民軍の兵士として、採用する。

 

それにより、平原部のビルマ人からは、イギリスの犬として、見なされた経緯がある。

インドから、労働者として、ビルマにやってきた、インド系住民と共に、嫌われ者になったのである。

 

1930年代になると、イギリス植民地政府に対する、農民、労働者、大学生の抵抗が、組織的なものになっていった。

 

30年から、32年にかけての、ターヤワディ農民反乱、1936年のラングーン大学生ストライキ、中部油田地帯の石油労働者ストライキに端を発し、学生、民族主義的政治団体などが加わり、全国的反英闘争に広がるのである。

 

これは、ビルマ独立運動の先駆けとなった、愛国心の発露として、語られる。

 

だが、独立後の、ビルマ連邦を、悩ませたのは、少数部族の、反政府反乱の原因が、この時期に芽生えている。

 

例えば、取締りは、警察であり、殖民軍である。そこには、少数民族の人々がいた。

鎮圧の対象となった、ビルマ人には、不愉快である。

 

その逆のことが、日本軍の支配時代に起こっている。

日本軍の協力によって誕生した、ビルマ独立義勇軍は、日本軍政の元で、イワラジ・デルタ地帯を中心とする、下ビルマ一帯で、カレン住民と、しばしば衝突事件を起こした。

独立義勇軍は、カレン人は、親英派であり、逃げたイギリス軍と、密かに連絡を取り、武器を隠し持っているなどの、嫌疑をかけ、日本軍と協力して、カレン村を焼き討ちしたり、主たる者を、殺害した。

 

カレン族が、独立後の、ビルマ政府に協力的ではなく、逆に、分離独立、大幅な自治権獲得を、掲げて、反政府武装闘争を開始した要因の一つとして、このような、歴史的経緯がある。

 

今回は、日本軍の支配時代については、省略する。

いずれ、追悼慰霊の旅の、時に、それを書くことにする。

 

ビルマの地域を理解するには、上ビルマ、下ビルマが、主なる区分けの仕方になる。

 

上ビルマ、かみビルマは、平原地帯を北から南へ流れるイワラジ河の、上流部分であり、下ビルマ、しもビルマは、その下流地域を言う。

 

マンダレー、マグエ、ザガイシの、各管区が、上ビルマになり、イワラジ、ヤンゴン、タニンダイーの各管区に属する地域が、下ビルマになる。

 

上ビルマと、下ビルマでは、自然の様相が、かなり違うのである。

 

上ビルマは、イワラジ河沿いの地域を除いて、平原部といえ、それなりの起伏があり、山地もある。

下ビルマは、イワラジ・デルタを中心にした、平原が大部分を占める。

 

気候は、どちらも、熱帯モンスーン気候であり、上ビルマは、雨が少なく、乾燥している。下ビルマは、比較的湿潤である。

 

上ビルマの、中心は、コンバウン王朝の中心であった、マンダレーである。

マンダレーや、その近郊の、アラマプーラ、イワラジ河をはさんだ、対岸のザガイン、南に下った、バガンなどは、著名な仏教寺院が多くあり、ビルマの人々の、生きた信仰の地である。

 

下ビルマの中心は、ヤンゴンである。

ダゴンといわれた、小さな漁村が、ヤンゴンと呼ばれるようになったのは、ビルマ人の王が、部隊を率いて、北から攻め下り、刃向かう敵を、すべて滅ぼして海を望む、この地に至った時、敵、ヤンは、尽きぬ、ゴン、と、述べたからであるとされる。

 

片田舎だった、ヤンゴンは、植民地ビルマの、首都となり、王城のマンダレーを、遥かに凌ぐ大都市になった。

 

植民地時代は、イワラジ・デルタ地帯で、大規模な、米作農業の開発が行われ、成果最大の、米輸出国となり、デルタ中心地の、パテインや、ヤンゴンは、米輸出港として、名を馳せた。

 

行政、経済で、ビルマの中心が、下ビルマに移るにつれ、ヤンゴンは、首都としての、機能と、体制を整えてゆく。

上ビルマからも、人々が移動してきた。

中でも、圧倒的に、多かったのが、イギリス領のインドからのインド系住民である。

 

インド系の人々は、農業労働者や、港湾労働者として、出発したが、徐々に地歩を固めて、地主や、金融業者として、成功する者も多かったのである。

 

そして、植民地時代の後半になると、ヤンゴンの人口の半分ほどを、インド系住民が占めるようになり、ビルマ人たちは、ヤンゴンは、ビルマの町ではないと、嘆くほどになった。

 

中国雲南省と、陸続きだった、上ビルマに多かった、中国系住民も、南下して、ヤンゴンなどの、下ビルマに流れて、小売業や、金融業を営む者が、増えた。

 

その時期に言われた、言葉は、

インド人は金を稼ぎ、中国人は金を貯め、ビルマ人はただ金を使うだけ

である。

 

下ビルマ、ヤンゴンは、支配者としての、イギリス系住民、商業や金融業で活躍する、中国、インド系住民、そして、ビルマ人、カレン、カチン族といった、先住民族の混在する都市の、様相を示している。

 

私の見たところ、店を構えているのは、インド系、中国系が多く、路上での、物売りは、ビルマ人が多いように、見えた。

 

何とも、皮肉なものである。

 

庇を貸して母屋を取られる

そんな言葉が浮かぶのである。

 

ヤンゴンから、タイに戻った時、暫く、インド人の顔を見るのも嫌になったほどである。

ヤンゴンのインド人は、一度、釣ったと思うと、いきなり、料金を、吹っかけてくるのである。

そんな、イメージを持ってしまった。