木村天山  日々徒然 バックナンバー  No4 2004年 著

 日々徒然4

 プロデューサーを名乗って三年が過ぎる。

 私が理解しているプロデューサーというものは、企画、立案、資金、そして舞台では監督がいない場合の監督、受付から、下働きまで多数の仕事がある。他のプロデューサーは知らない。私の場合である。それを、私はよしとしている。

 時には、影アナウンスから、司会、朗読までやる。出演者、スタッフの、飲み物、弁当の手配までする。

 それでいと思っている。主催、プロデュースなのであるから、当然である。

 見栄を張って、人を雇うことはないと思っている。これが、私流のプロデューサーである。時には、自分も舞台に立つ。これもいいと思っている。

 さて、ここまでくると、プロデューサーというものに、幻想を抱いている馬鹿者が、私を批判する。人は、それぞれ何かに、幻想を抱き、それを肯定して安心している。私には、そんな安心などない。

 私には、すべて創造なのである。

 幻想に浸って安穏として、生業を立てている人はいい。そのまま寝ぼけた世界にいて、生きればいい。組織、団体に守られて、のうのうとしていればいい。

 私は創造しているのであるから、私がやる。それが私流儀のプロデューサーである。

 そのうちに、ディレクターが必要になり、舞台スタッフが必要になれば、そのようにする。臨機応変に対応するのである。

 生きるということは、すべて新鮮で初めてなのである。そこには創造することしかない。 そして興業とは、昔、山師と言った程、賭け事に似ていた。客入りである。私はそれも、興味がない。私がしたい舞台、私が見たい舞台を、私が造る、創造するのである。それでいい。

 客入りが少なく、出演者に申し訳ないと、中止にしたこともあるが、実は、それも不本意なのである。客入りが少なくても、私が見たい舞台なのであるから、開催するのである。 人が言う。客が少ないと、不安になるのだと。つまり、この公演が価値のないものであると思ってしまいやすいということである。

 人が大勢いると安心するというのは、まさに主体性がない人々の群れである。そういう人は、私に相応しくない。

 招待券を出しても、客を大勢にするべきだと言う者がいる。たいがいは、組織の中にいて、安穏として、芸を、やっているつもりでいる者が多い。

 私は創業なのである。私から始まるのであるから、私はそういう、作られた道の上にいる人の言葉は聞かない。

 何度も言うが、人生は創造なのであり、それを体現することなのである。それは、私が華道や茶道の巨大組織に属していた経験があるから、言えるのである。

 華麗なるペテン師であるところの、家元、宗家等々、私の尊敬するところではない。

 それらは、皆、創業の苦しみを経験した宗家宗祖を食い物にしているだけの話である。 守るということは、必要なことであるが、守るということは発展させるということで、それは芸の上でのことである。芸を商売に堕落させることはしない。

 商売が堕落したものだと言うことではない。商売として全面肯定しているならば、それは立派なことである。芸もどきというのが、一番、卑劣である。