木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 

 日々徒然16

 深夜、一人で物思っていると、誰かに手紙を書きたくなる。宛のない誰かにである。

 孤独を表現するものに色々な方法があるが、私の場合は、書くことが最も適当なのだ。 人に話をしても、解決のつかないことが人生には多々ある。どうしても、自分と向き合って、じっくりと見つめる時間が必要になる。考えても、先に進まないことも多々ある。

 生きてゆくことは、行動すること以外実際的な方法はない。考えるよりも、行動に移した方がよいというのが、私の持論だが、それでも矢張り、佇むことがある。

 良い眠りを得るためには、余計なことを考えない方がいいと言うが、眠る前の時間は、どうしても、一人を見つめる時間となる。要するに、反省と思索の時間である。

 傍から私を見ると、単純に行動しているように見えることが多々あると思うが、それは、そう演じているとも言える。

 余計な理屈よりも、やってみせた方がいいのだと、私は考えて行動する。しかし、それが人の理解を得られないことも多い。

 何もしない人が、批判や非難をするのは、世の定めだと思っているから、やらない人の言葉は聞き流しているが、矢張り生身の人間である。あまりに多くの批判を受けると、くじけそうにもなる。

 札幌にいた頃は、やればやるほど、多くの批判を受けた。それでもやった。しかし、その成果は、見るも無残なものだった。

 やればやるほど批判を受けるということは、自分に、その器がないということだと、私は悟った。そして、やるならば、新天地を目指すことだと思った。

 私が何かをやろうが、どうしようが、大河の一滴のような、大都会、つまり東京である。そこでは誰も批判などしない、非難などしない。感知しないのである。

 地方で努力しても評価されないのなら、始めから、相手にされない都会で、やりたいことをやってゆくことが、理想的だと思った。

 案の定、都会は、冷淡である。私が何をしようが、都会の器は、静観の構えである。一人の支援者、二人の支援者と、少しずつ増えてゆく。それでいい。そうして、自己実現を目指すのである。これが、また有名になると、都会のような中でも、批判や非難にさらされることだろうが、そんなに有名にならずとも、活動が出来るのである。

 都会は混沌として、得たいが知れないから、個人の活動など知れている。時には埋没する。それが、一つの快感となる。

 都会で成功することは、至難の業である。だが、地方のように、余計な神経を使うことなく、我が身の勝負なので、気が楽である。

 そして都会では、本来持った、「運」というものが、明確に見えることも良い。容赦しない、厳しさがある。余計なことで、心を煩わせない分、それはそれは厳しい。

 まして、どこかの団体に所属するのではないから、つまり一匹狼的な行動をするから、尚更である。

 私は地方の馴れ合いの付き合いは合わない。地方では、人は平等であるから、何かをやっても、自分たちの線の上にあると思っている。やることと、やらないことは、天と地の差があることを知らない。

 やれる人は、才能があるのであるということを、認められないのである。それが地方の良さであり、大きな欠点でもある。

 今夜は、こんなことを書いてみた。私には成功などという価値観はない。やるべきことをやれれば、それで十分なのである。つまり、自己完結が目標なのである。