木村天山  日々徒然 バックナンバー  No1 2004年_月著

 日々徒然17

 イスラム教国のことを理解するには、それなりの知識が必要である。

 日本人は、イスラム圏、中近東圏については、皆無と言うほど無知である。彼らの常識というものから違うのである。

 例えば、日本は水はただであった。しかし、砂漠の国は、水で戦をする。旅人に水を上げることは、大変な持て成しである。そして相手に水を上げれば、自分が死ぬかもしれないという土地である。

 また、唯一、日本人が理解出来ないのが、彼の地は、宗教によって国が成り立っているということである。そして、同じイスラムでも、派閥がある。宗教の教義が国を作るのである。愛国心のありようは、宗教の信仰の深さと同じである。ということは、自分たちと違う宗教を信じている者は、異教徒であり、異端である。異教徒や異端は、人ではない。 それらは、動物以下である。一時、キリスト教、カトリックも中世に十字軍を編成して、異端であるイスラムに攻撃を仕掛けた歴史がある。愛の教えを説くキリスト教でさえ、異端を人でないという歴史を持つのである。

 その感覚を、日本人は理解出来ない。

 他民族との共生が、非常に難しい地域であり、国柄である。

 イスラムの留学生と話したとき、私の宗教を聞くので、カトリックで仏教徒で、神道だと言ったら、あなたは、気違いだと言われた。そう彼には、唯一神アラーのみがあるのであり、他の神は偽物なのであり、多くの神を拝む私は異常事態なのである。

 私のような姿勢を、彼らには理解出来ない。

 信じ切っている人を、説得することは出来ない。

 では、彼らとの共存は無理なのか。無理である。私がアラーの神を拝まなければ、共生は出来ない。力づくで、彼らの信仰を破壊しても、恨みの相手になるだけである。

 だから、彼らと話をするためには、私もアラーの神を拝むことなのである。

 そして、私はアラーの神を拝むことが出来る。

 私だけではなく、日本人なら、アラーの神を拝むことが出来るのである。

 神道は、仏教のみならず、儒教も、道教も受け入れ、咀嚼して融合させた。実に、寛容な宗教である。非寛容な宗教の融合を神道は行うことが出来る。そして、これが、日本人の最大の特徴でもある。

 礼儀作法の基本は、孔子の言葉にある。「相手が大切にするものを、あたかも自分にも大切なものであるように扱う」ことである。孔子の教えを最も受け継ぐことが出来るのが、日本人である。それほど、日本人は曖昧で、たゆたう民族なのである。

 私は、この日本人の民族性が、世界の平和に貢献出来るものだと、確信する。

 神道の神、天照大神すなわち太陽は、世界の太陽である。寛容であるはずである。地域の神様を拝むことなど、たやすいことである。

 人格神を持つ、唯一神の民族との共生を、日本人が率先してすればいい。

 アラーの神を通して、太陽を拝するのである。キリストを通して太陽を拝するのである。何の問題もない。だから、私はどこの神様も、拝むことが出来るし、日本人なら、誰でも、そういう作法が出来るのである。

 先に書いたことを理解して、彼らと共に、彼らの神を拝むことで、平和になるなら、平和になった方がいい。日本人の特性を最大限に生かすことで、相手も生きる。

 白隠禅師は「白露は己が姿をそのままに、紅葉におけば紅の玉」と歌う。本質を変えずに、自在に相手の色を写す。これが、まさに日本である。