木村天山  日々徒然 バックナンバー 

 日々徒然18

 恐れ多いことだが、言論の自由を許されている事でもあり、天皇家について書く。

 天皇は帝であり、王様、キングではない。皇帝であり、エンペラーは、世界で唯一人である。私は、これに驚愕する。ここまで天皇の存在を受容している国民は世界に無い。勿論、反対している国民もいるであろうが、賛成している国民の方が多い。

 私の言い方をすると、天皇家とは、日本の最大の無駄である。だが、その無駄は、最大のゆとりであり、贅沢な存在でもある。

 国に、天皇家のような一家の存在を許せる国民性を私は、喜ぶ。

 例えば、芸術は、無駄である。しかし、芸術が無くなった時に、多くの人は絶望して死ぬことだろう。無駄であることが不必要ではない。無駄であるから、必要なのである。

 一国に、天皇家を持つ国、日本の豊かさといったらない。

 例えば、天皇家は、日本の至るところで起きる災害、事件に、我がことのように、心配し、心を砕く。そういう、一家が日本にいるという幸せである。

 下々の国民は、身内に災害がないことを祈るが、見ず知らずの人に災害が起こることに特別な感慨を抱かないだろう。こちらに無くて良かった程度である。しかし、天皇家は、日本の至るところの痛みを我が痛みとする。

 そういう人が一人でもいる国。素晴らしいことである。

 ここで昭和天皇を持ち出すが、マッカーサーとの会談で、天皇は「私の身は、どうなっても構わない。国民を救い守って下さい」と言う。マッカーサーは驚愕した。普通は、敗戦国の長は、亡命を願い出るからである。そこから、マッカーサーの天皇に対する態度が一変する。尊敬の念に変わる。その後の経過は見てのとおりである。

 天皇の戦争責任云々については、歴史をとにかく調べるべきである。誰かに責任をなすり付けたい人は、天皇に責任を問わせるのが一番手っ取り早いだろう。

 私は、天皇に責任をなすり付けるというなら、当時の国民すべてに戦争責任を問う者である。勿論、私の先祖にも問う。あの時代の人は、皆死んでしまって、死人に口無しであるから、どうしようもないが、身を呈して、戦争を反対しなかった者の責任も問うべきである。

 戦争責任はすべの国民が負うべきことである。

 天皇家の歴史に関しても、じっくりと調べて判断すべきである。

 私は、私なりに天皇家の歴史を学んで、私なりの結論がある。

 それを前提に言うが、天皇家の立ち振る舞いを見ると、世界のどこの国に出ても恥ずかしくないものである。あれ程の立ち振る舞いは、一朝一夕になるものではない。

 日本の代表として、誇れる存在である。

 一般市民が、あれほどの振る舞いは出来ない。礼儀作法の伝統が生きている。見事である。

 敗戦によって天皇は、人間宣言をし、象徴としての存在を受け入れ、天皇家を存続させた功績は大きい。もし、敗戦により、天皇家が壊滅してしまったらと思うと、ぞっとする。 天皇として成るための歴史を見つめ、天皇になってからの歴史を見つめると、天皇とは、国民のために何かを成す存在である。国造りを成す存在である。誰かがしなければならないことだった。それが天皇家である。そして、天皇家はいつでも、日本の象徴足り得たのである。あの織田信長でさえ、天皇家を焼き払うことが無かった。天皇家を破壊すれば、信長の天下統一も為し得ないことに気づいていた。

 徳川家康も、不遜であるが、天皇家を生かさず殺さずにして、天下を統一した。

 天皇家は無力である。天皇家は無駄である。しかし、無力であり無駄であることの貴さを国民が気づいている国は、日本以外にない。貴ぶべきものを持つ国は、幸せである。

 一家の中に、無力である翁がいる。しかし、家族は翁を貴び、翁にすべてを報告し、喜怒哀楽を共にする。翁は無力で無駄な存在である。しかし、無くてはならない存在でもある。私はそう考えている。