木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 日々徒然25

 「健康のために生きている人が増え」という、川柳があった。

 私なら、「健康のためだけに生きる人増え」になる。

 健康産業花盛りである。一々上げないが、健康という幻想にすがる人の多いことといったらない。まさに、健康のために生きているかの如くである。

 健康とは、完全無欠な人がいないように、完全無欠なものではない。

 ガンで死ぬ人がトップになったという。ガン保険も花盛り。死ぬ人は、今も昔も変わりない。ただ、死因が解っただけである。老衰だって、体のどこかにガンがあれば、ガン死である。

 ガンが治っても、人は死ぬ者であること。

 健康幻想は、健康恐怖を生み出し、健康神経症を発症させる。

 化学の発見が発表される。何には、何の物質が発見され、ガンの予防に効く。その一々を聞いていれば、今まで食べていたものである。何のことはない。化学が知らなかったことであるが、先人たちは、経験で知っていた。

 その一々に振り回されて、人が動く図は滑稽である。

 好きな時に、好きに物を食べるとよい。それで早く死んだからとて、一体、何のことがあろうか。10年長生きして、一体、何の意味があるのか。

 思えば、食べ物が豊かな時代は、少し前からである。それ以前は、ほとんど、飢えていた時代が長い。

 最低限の栄養を確保するのも難しい時代に生きた人の方が多いのである。

 健康で長生きすることは良いことであるが、それ以上のものではない。病を持たず健康で、傍若無人に動き回る人程、迷惑なものはない。

 昔山登りをした時に、気づいたことがある。グループの中に一人、皆が手を掛けて上げなければならない人がいると、グループの団結が強くなるということである。つまり、いたわる人が一人いると、団結力が強くなる。それを見て、私は悟った。

 皆が健康であれば、いいというものではない。病にある人がいて、健康な人は、その健康であることの意義を知り、病にある人を気に掛ける。そして労る。そうして、団体の絆が強まる。

 ここに人が生きるということの、真実が見える。

 人は孤独な者であるが、孤立しては生きられないのである。人との連鎖を絶対とする。社会に関係なく生きているようで、社会に生かされているのである。

 俺は、一人で生きていると思っている人がいれば、それは大きな間違いであるということ。一人が病めば、全体に影響を与えるのである。

 一人暮らしの老人が、誰にも見取られずアパートの部屋で死んでいた。というニュースは、社会に大きな影響を与える。一人で死んでいった老人は、無人島で死んだのではない。社会の中で死んだのである。俺の勝手だと言っても、社会の関わりから逃れられない。 大なり小なり、社会の人々の縁の中で生きているのである。

 さて、健康である。健康幻想に惑わされず、我が身を大切にすることである。

 老いるということは、免疫力が低下して当たり前なのである。だから老いるのであり、むやみやたらに長生きすることより、一日を一年として深く生きることである。

 死ぬ時節には、じたばたしないで、死ぬべきである。

 歴史を見れば、この人がもっと長く生きていれば良かったということはない。きちんと、死ぬ時節に死んでいるから見事なものである。

 次に準備万端整えられてあるのである。

 どんなに強大な権力を握った者でも、確実に死んでいる。これこそ、歴史を信じられるものである。

 健康とは、ほどよく、適当に体を労り、完全である体の機能を信じることである。つまり、必要なものは、体が教えてくれる。それを聞く、感性を持つことである。