木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 日々徒然27

 前回、よっぽどのことがない限り、人生に深刻なことはないと書いた。

 人間の生理は、どんな深刻なことも超えて行くことを教える。

 どんなに深い絶望感や、悲壮感を与えられても、人は生きるのである。どんな深刻なことがあっても、人は腹が空く。食べざるを得ない。悲しみに、物が喉を通らないと言っても、それで死んだ人は数少ない。食べざるを得ない。

 どんなに深刻な悩みがあっても、ウンコはする、おしっこもする。これが、人間の生理である。そして、生理は人を救う。

 焼き場で、人が焼かれている間、待っている人は、弁当を食べたりする。悲しみのどん底にいても、腹は空く。

 私は、これを人間の救いと見る。逞しいのである、人は。

 大切で、大好きな、ババが死んだ時(私の祖母である)骨になって仏壇に飾られたババの死は悲しいが、何と、私と弟は、その夜、ジンギスカンを食べたのである。全く意識せずに、何となく、ジンギスカンが食べたくなり、二人で食べた。そうして、私は、弟に言った、そういえば、今日はババが死んで焼き場に行ったのにと。弟も、ようやく、そうだ、そうだったと言う。

 とんでもない、孫である。喪に服して、せいぜい精進料理なるものを食べるのに。

 棺桶に入ったババを見て、泣いた私が、その夜、ジンギスカンを食べている。もう、笑いしかない。私と弟と、顔を見て笑い合った。

 どんな深刻な悩みでも、人の生理の前には、滑稽になる。

 失恋して、死ぬ程の苦しみにあっても、ウンコがしたくなる。その時だけは、失恋の苦しみを忘れて、ウンコをする。終わると、再び、失恋の苦しみに戻る。

 どうして、こんなことを書くのかと言えば、そういうものなのである、人間は。

 この世に、死ぬ程悲しいことが数多くあるが、生きている人は、生き続けなければならない。そのために、生理というものがあって、一瞬でも、悲しみから逃れさせて、そのうちに時間を経て、逞しく生きるべく、無意識に体が配慮しているのである。

 祖母が死んで、50年後に私が死んで、後の人から見ると、同時代に死んだように思われる。半世紀なんて、物の数ではない。50年の差なんて、後の人から見れば、同じ時期に死んでいますね、ということになる。

 それを思うと、人の死も、それほど深刻なものではない。

 それより、祖母が生きていて、先に私が死んだら、それは悲しいだろう、祖母が。順番に逝くから、いい。

 不可抗力による絶望的な悲しみに生きる人もいる。

 私のお弟子さんが、乳癌になって、絶望的になり、夜中に電話して「死にたい」と言うので、私は、「何言ってるの、あんたガンなんだもの、どうせ死ぬんだから、自殺しなくていいしょ」と答えた。その後で、お弟子さんが、私に言った。「先生は、なんてこと言うのだ」と腹が立って腹が立って、結局、死ねなかったと言う。

 その後、お弟子さんは、手術をして、15年程生きた。最後は、脳腫瘍で、亡くなった。 葬儀の夜、私の部屋に深夜、良い香りの匂いで、別れにやって来た。またいずれ逢うのであるから、私は、少しばかりお経を上げた。

 苦悩することの多い人生を、与えられた人もいる。その人の人生に関わることは出来ないが、必ず、生きるべき抜け道があるのである。

 さて、人間の生理は、これまた恵みである。欲望も恵みである。

 持てるものを、すべて利用して、最後の最後まで生き抜くことである。