日々徒然34
地獄とか天国というのは、心の状態を言うのであり、霊界には、そんなものはないと言う宗教家もいるが、そんなことはない。霊界には、地獄も天国なるものもある。天国については、その段階が多くて、一口に言えないが、地獄は、単純に地獄である。
どんな人が地獄に行くかと言えば、地獄に落とされるのではなく、自らが地獄に行くのである。つまり、反省の場所なのである。
肉体を抜けた霊は、さて、どこへ行こうかと考える。迎えに来る霊人と共に上がる場合もあるが、心が曇ってそれが見えない霊もいる。
純粋に霊体になるので、考えも純粋になり、自分の生前の行動を、明かに見つめることが出来る。そして、そこで、ああ、悪いことをしたと反省するなら、即座に、地獄という霊的空間に移動する。
名指しで、地獄に行く人の名を上げたいが、これは礼儀に反するので止めるが、確実に、地獄に行く人がいる。
人の上に立っていた人に多いから、不思議である。この世で名誉や地位の高い人が、地獄行きになることが多々ある。反省しなければならないことが多いからだ。
それでも、自分は悪いことをしたという意識の無い人は、その肉体先祖の霊格の高い霊人(神と呼んでもよい)や、守護霊に促されて地獄に行く場合もある。その場合は、落とされるという言い方が合うかもしれない。それは余程の悪人である。
悪人であるという意識もない悪人。
しかし、中には、霊界に行かず、この世に留まり、自縛したり、浮遊したりする霊もいる。お化けである。地獄へ行くのも苦しいが、この世に留まるのも苦しい。すると、この世の人に障る。霊障ということになる。
思い込みの激しい頑固な人に多いから、また手がつけられない。怨念とか、生前の執着の強い人が、そうだ。そういうものは信じないという人は、無視して構わない。無視しても、いるものはいるのだから、何をか言わんやである。
つまり、私の言いたいことは、人間、死んでも死なないのであるということだ。死んで終わりであれば、これ程また幸せなこともない。全く、虚無に帰すのであるから、極悪なことをしても平気である。だが、それは甘い考えである。死なないのである。
地獄の話に戻る。
針の山、血の池等々、昔から言われている地獄の様はない。ただただ虚空であり、孤独な空間である。風もない。自分との対座であるから、こんな地獄もない。最も見たくない自分を見据えるのだから、苦痛である。
例えば、国民の税金(お金は、人の思いの極限を示す)を使い、悠々自適な生活を送った人などは、大変な苦痛を味わうだろう。自己保存の極限にある自分の姿を永遠に見つめるのだから、そうとうな地獄である。悔いるという、そんな生易しいものではない。慚愧の思いと言っても、足りない。
ついに、その霊は、助けを肉体の子孫に求めたりする。そうすると、子孫は、原因不明の病や、事故、事件などに巻き込まれて、呻吟する苦痛を味わう。
七代祟るというのは本当で、祟られた人は、実感として解るだろう。人を自分の欲望の赴くままに扱った人などは、七代祟られたりする。自業自得であり、理由の知らない子孫も悲劇である。
私は、脅しているのではない、事実を話している。縁というのは、断絶してあるのではない。連綿として続いているのである。罪のない善良な人が不幸に遭うと、人は、同情するが、罪のない人が、不幸な目に遭うことはない。因果応報を自覚するべきである。
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