木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 日々徒然 42

 素人の私が、クラシックコンサートのプロデュースを手掛けて、三年を過ぎた。クラシック界の、演奏者、つまり音楽家と言われる者共と、そのフアンの愚かさの極みについて言う。

 まず、その両者共に、糞プライドである。唾棄すべきプライドには、辟易する。クラシックをやる、聞くということが、そんな偉いことなのであろうかと、私は感心して、仰天した。音大等、大学を卒業して、コンクールに入って、いつからかプロのように演奏して、人も自分も解らないような、高尚?な演奏をして悦に入っている図は、哀れである。

 素人の私には、音楽に垣根はない。クラシックであろうが、民謡であろうが、ジャズであろうが、その他諸々、好きな音楽は沢山ある。

 バッハが、古賀政男より優れていると誰が決めたのか。私は、よく解らない。バッハではなく、古賀政男の音楽に救われた人も多々あるだろうに。私に言わせれば、たかが、バッハである。勿論、私もバッハは好きだ。

 そしてクラシックフアンである。あれは知らないということを知らない。知っていると思い込んでいるその言動に仰天する。言論の自由だから、何をどう批判してもいいということで、私も言うが、好みを基準に、批判するなと言うことである。音楽はすべて、好みに行き着く。それを知らない。

 特に哀れなのは、自分も音楽家を目指して、才能がないせいで、演奏が出来なかった者である。その劣等感もあるのか、まあ、驚く程の勘違い評論を展開するという図である。 自分の耳がいいと思い込んでいる様は、哀れである。一度、耳鼻咽喉科で、耳の検査をすべきであると私は思っている。彼らは、音しか聞けないのである。素人の私でも、音の合間を聴いている。聞こえる音が音ではない。音というものは、音の合間に、その姿を現すのである。それを知らない。だから、楽譜の音を頼りにしか聞けない。

 物を知るということが、何を知らないのかということを知ることだと、知らない不幸である。楽譜を知っているから、その音楽を知っているという、稚拙さである。

 そしてこれが、日本のクラシック界の現状であり、毎年、多くの音楽家が世の中に出るのだが、そのほとんどが、どんなに才能があっても消える。馬鹿が演出して、馬鹿が知った振りをして聞いているからである。聴いているのではない、聞いているのである。笑ってしまう。

 家を一件分建てられる程のお金をつぎ込んで、あの体たらくである。金持ちの坊ちゃん穣ちゃんが、やり続けられるのが関の山である。

 何せ、自分の判断が愚かだから、何が良いのか悪いのかも解らず、誰かの称賛や、マスコミ等々の宣伝があれば、人が集う。また、一時間も聞いていられない高尚な演奏を、解説に首ったけで聞いて入る図の滑稽さである。

 微妙な繊細な音を聴く日本人が、何故、雄叫びのようなオペラを聴いて、悦に入っているのか、理解出来ない。よほど耳が悪いとしか思えない。

 宗教曲などは、哀れを通り越して、悲劇である。観客の皆様が、聖書を熟読して、キリストの受難について、それなりの、思いを持っているのだろうと、素人の私は感心する。長くて苦痛の音楽を聴く神経が理解出来ない。それ程、キリストの受難を黙想出来る信仰を持っているのかと想像する。それにしては、終わった後で、晴れ晴れとした顔付きで帰る人はいない。皆、胃潰瘍の患者のような顔付きで、会場を後にする。

 まだまだ、言いたいことはあるが、唇寂しくなるので止める。

 いずれにせよ、日本のクラシック界は、寂しいものである。良質の音楽を低利用金で提供しますと、善意のコンサート企画をしている者の勘違いも仰天する。演奏家を食い物にしているとは、全く気づいていない神経、面の皮の厚さである。良質の音楽を提供出来るのは、お前のお陰ではなく、チケットノルマのある演奏会に出演する音楽家のお陰だろうが、と言いたい。この辺で止めておく。