木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 日々徒然50

 イラクでの人質事件の後遺症がある。自己責任論である。

 人生は、すべて自己責任であるから、当然彼らにも、自己責任というものはある。それを前提に言うことにする。

 個人の善意の行動が、たまたまイラクという戦闘状態、占領状態にある土地でなされたということである。善意とは、すべて個人の意識から発するものである。それが、他の負担を伴った場合をどう解釈するかということである。今回の場合は、日本政府が、個人の善意ある行動の、尻拭いをしたと言う。

 個人の善意を通すことにより、他人に負担をかけることになったということで、様々な議論がなされる。曰く、善意を成しても、限界がある、自覚をするべきである。善意を行う者を止めることは、希望を奪うことである。政府に従わない者は、悪い者であるのか、それならば、統制である、云々。

 今の時点で、この議論を聞いても、実は、答えが出ない。これは歴史の問題である。歴史的視野に立って見つめないと、近視眼的解釈と解決になってしまう。

 アメリカの要請に従って、日本も自衛隊を派遣した。日本は、イラクの人道支援のためにと言うが、見れば軍隊である。アメリカと一緒であるから、占領軍である。しかし、人質事件で、イラクの人は、日本人にも色々な考え方があるのだと知った。個人で、イラクを支援するという人もいる。個人的にイラクを心配する日本人がいる。

 彼らは、個人の善意を成しているが、その背後に日本を負っている。個人の小さな善が、大きな善を生むこともある。

 自衛隊の派遣だけを見れば、次第に日本に対するイメージが固定してしまったであろうが、彼らによって、固定した見方が出来ないと感じるのである。彼らの善が、日本の善に飛躍する。

 一人の日本人の善が、日本を代表することが、海外ではあり得るのだ。これを、何と見るか。

 政府は、20億円を要したと言う。個人の善意の代償に多額の金を要した。だから、賠償して貰う。私が考えるところ、彼らの行動は、20億円以上の無限の価値を、日本に生み出したと思えるのだが。

 人生は、自己責任であると言った。自分の取った行動が、批判され、誤解され、中傷されて、どんな目に遭うか解らない。それが善であっても、である。歴史を見れば、一目瞭然である。自分の行動を歴史に任せる覚悟で、行動することなのである。特に、善意とは、時代によって、地域によって、人種によって、等々、立場によっても違う。それを覚悟で成さざるを得ない善意であると、自覚して行動するべきである。そして、そのあらゆる批判に耐え得る善意であるとの信念を持つことである。

 要するに、世の中は生易しいものではないということである。

 今回は、それぞれに35万円程の負担をさせるという政府の方針である。その善し悪しは、歴史に任せる。

 ところで、話は全く変わるが、政治家、官僚が、税金を無駄に使っている額が、どれ程のものか知りたいものである。民の金を湯水のごとく使って、のうのうとして、安楽な暮らしをしている政治家、官僚の皆々様に、問いたいものである。

 他国に、一人の善意で、日本のイメージを変える程の力を持つことの是非を。

 善意というものは、極めて個人的な情緒である。それを称賛されることなど、求めていない。ただ、淡々として、自分の心に従って成す行為なのである。それを誰も犯すことは出来ない。

 拡大解釈をすれば、テロを行う者も、善であるという意識を持っているだろう。ある人々に取っては戦争も善になるということだ。そして、その判断は歴史に委ねるしかない。