木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 

 日々徒然58

 10年程前に、私は日本は崩壊したと言った。日本という国は無いと思った方がよいと提言した。それは、伝統と、心情を失ったということである。

 崩壊することによって、建てられるというのが歴史の教えである。再生は破壊によって成されるのである。しかし、今だ、日本は再生の兆しが見えない。

 それは、幼稚と稚拙が横行しているからである。

 主体性を失い、自己というものを捨ててしまった。自己阻害どころではなく、自己過失である。目の前の現実を見ることなく、集団が描く妄想に振り回されて、足の置き所なく、漂う。他者を理解するという能力に欠けているにもかかわらず、それを知らない。

 欲望を制御することなく、単に欲望を放ってしまった。古代の乱行にも、一定の制御があった。歌垣という、乱行するお祭りに乱行がなされたであり、大らかだった性に対する欲望も、規則があった。しかし、今は、欲望を制御するという、人間の基本的な、礼儀作法も失われている。

 最も影響力のあるマスコミが、その最も足るものになり、役目を果たさないということも大きな原因である。今は、マスコミの言論が、再生に最も貢献出来るはずであるが、マスコミにいる人間も、幼稚と稚拙で大手を振っているから終わっている。

 危機を発する人はいる。説を説く人もいる。しかし、今一つ、覚醒させることが出来ない。30年程前に大衆の反撃を行ったが、それは、空に帰した。結局、大衆は愚かさを選んだのである。その方が、楽なのであろうか。

 戦後60年を迎える。60年とは、還暦であり、一つの区切りの年間である。

 ここで一つ、日本の精神である、伝統と心情を教えるカリスマが出現することも可能であるが、何せ情報の錯綜である。情報にかき消されてしまう。

 私は情報量の多いことを嘆く者ではない。情報はあればあるほど自由であるが、本末転倒で、情報に振り回される人々の群れもある。

 それでは私が「やむにやまれぬ大和魂」で言論のカリスマを目指そうかとも思うが、何せ私は健常者であり、お涙頂戴の演歌好きの大衆の好みとするところではない。いつからか、日本人は逆差別を好むようになった。それは、平和ボケを通り越して、自己過失まで至っているからであろう。

 考える言葉を持たないということは、精神を失ったと言うことと同じである。勿論、精神を失っているとは、夢にも思っていないのだが。

 世界でも稀な共生の思想を土台の宗教心を持つ日本人である。世界に果たす役割が、これから始まるという時に、惚けていては、民族がすたる。

 すべては一人の人間の言論から始まる。それでは私がと、ややおこがましいが、いよいよ言論を持って、日本再生を唱えることにしようと思う。

 大いなる和ぎの心を持つ大和魂を唱えることにする。伝統と心情を訴えることにする。それはセクトを作ることではない。集団を作ることでもない。眠れる日本人の心に訴えるだけである。一人一人が日本人である誇りを持つことを、唱える。

 全体統制でもなく、一人一人の目覚めを促す。個性を失うような言論を展開するのではない。主権在民までこぎつけたのである。個が個であり得るということが前提である。

 民主主義という耳触りの良い言葉にごまかされず、あたかも民主主義であるかのように見せかけて、統制を行うマスコミに振り回されることなく、個が個として生きるべく、私は日本の魂と心と精神を語る。